インタビュー 37

このページでは、当研究所教員へのインタビューを通じて、当研究所における研究への取り組みをご紹介しています。
第37回となる今回は、のウラン・レメリンク研究員へのインタビューをお届けします。

ウラン・レメリンク (Wulan Remmelink / ライデン大学 博士研究員)

―― 現在の研究テーマを教えてください。

ウラン・レメリンク

  私の研究テーマは、江戸時代における植物図です。日本の植物学の発展において植物図が果たした役割を探っています。江戸時代初期には、今日知られているような植物学は日本には存在していませんでした。本草学(マテリア・メディカ)という学問領域はあったのですが、これは「植物学」ではありません。私は植物図を一つの道具として、本草学から植物学への変遷を辿ろうとしています。これまで、多くの研究者が日本の医学史や医学の発展における西洋の影響を論じてきましたが、植物学に関する研究はそれほど行われていません。そこで私は、植物図それ自体の変化と発展を見ることを通して、日本における植物学の発展を追おうとしています。

―― 本草学と植物学の違いはどこにあるのですか?

ウラン・レメリンク

  簡単に言いますと、本草学(マテリア・メディカ)というのは、植物はもちろん、動物も、鉱物までをも対象にした学問で、多くの場合、それらを医療に利用することを目的としたものでした。一方植物学は、植物のみを一般的に扱うものです。本草学の初期には、日本の学者たちはその手本として中国を頼りにしていて、李時珍の『本草綱目』をほとんど「バイブル」のように使用していました。日本人学者たちは、『本草綱目』の中の植物について勉強し、それらと日本で入手可能な植物とを比較したりしました。しかし、しばらくすると学者たちは、『本草綱目』で言及されている植物のいくつかは日本に存在しないこと、そして日本に生息する植物のいくつかは『本草綱目』では全く述べられていないことに気づき始めたんです。このことは、例えば貝原益軒(『大和本草』などの作者)のような学者たちを、実際のフィールドに駆り立て、植物を観察・収集し、名づけ分類するように促しました。江戸時代の間に見られたのは、学者たちが自然界を観察し研究していくという動向であり、それは「博物史」という学問の発展を導きます。そして江戸時代の後半には、西洋の挿絵入り科学的書物と、リンネ式植物分類法がもたらされ、宇田川榕庵のような学者たちが、植物を研究する固有の領域、つまり植物学へと集約していったのです。

―― では、このような変遷と植物図の関係とは?

ウラン・レメリンク

  今お話しした学問の変遷と植物図にはとても深い関係があります。私は、日本の植物学の書物の研究を始めたとき、「植物学」という学問が進歩していくのと同様に挿絵の質も向上していることに気づいたんです。進歩や質の向上とは、科学的により正確になったという意味です。はじめ最も科学的な情報は、文章の形で記録されていました。実は学者たちは当初、絵というものは誤解を招くものだと考えていたんです。しかし、彼らは挿絵の価値と視覚的な論証の重要性に気づき始め、植物に関する情報を視覚的に描写し始めました。例えば、『本草綱目』の挿絵と江戸時代後期の文献の挿絵を比べてみると、その違いがはっきりと分かるはずです。初期の植物図は、言ってみれば素人くさくて正確ではないんですね。後代の挿絵の方は、洗練された厳密な描写で、科学的に正確な情報を伝えています。植物図の主たる目的は科学的情報を伝えることですから、正確であることは不可欠な要素なんです。
  私は修士のときから、芸術の領域と科学の領域における、いわばパラレルな発展について研究してきました。オランダ人によってもたらされた西洋の書物の挿絵は、日本の学者と画家の目を捕えました。それは、自然界の物体をより写実的に描く方法だったんです。新しい絵描きの方法と新しい科学技術・知識の両方の導入によって、日本における科学は急速に発展していきました。

―― 芸術の領域と科学の領域におけるパラレルな発展、という視点は興味深いですね!

ウラン・レメリンク

  ありがとうございます。実は、私は自分の研究の説明に困るときがあるんです。研究テーマは何ですかと聞かれたときに、19世紀初期の日本の植物図だと私は答える。そうすると悲しいことに、相手は理解してくれないこともあるんです。私の研究はとても学際的なものといえます。芸術と科学、東洋と西洋の関係を扱う研究ですから。これに関することですが、私の研究には二つのレベルがあるんですね。私は一方で、日本の植物学の発展における、植物図の役割を見ているわけですが、他方では、18~19世紀の日本とオランダの間の科学的知識の交流と知識と技術の流通・循環において、植物図が果たした役割を見てもいるんです。

―― 今、「交流」や「流通・循環」という言葉を使われましたが、これらの知識や技術は、オランダから日本へ導入されただけというわけではなく、日本からオランダへという流れもあったということですか?

ウラン・レメリンク

  そうです。新しい知識・技術の導入は一方通行でなされたわけではなくて、相互交流の中でお互いが利益を得るものだったんです。日本人は新しい知識・技術を吸収し、自分たちの科学の発展に役立てました。例えば、彼らはリンネ式植物分類法を用いて、植物を分類し名づける方法を学びました。この分類法は今日でも使われていますよね。ただ重要なのは、日本人の学者たちは、彼らが有益だと考えたものを選択的に採用したことです。そしてまもなく、彼らは西洋の植物学者が用いるのと同じ植物の学名を使い、同様の植物図を作成していったのです。
  一方、西洋の科学者や植物学者は、東洋の植物に非常に興味を示しました。そこでオランダ人は国に帰るときに、彼らにとって「新しい」植物を持ち帰ったのでした。これは、西洋における植物学の発展の手助けになったんです。ちなみに、ヨーロッパの庭で目にするほぼ70%の花は、実は日本からもたらされたものであることを知っていましたか?そしてもちろん、このときに植物図は非常に重要な役割を果たしたんですよ。というのも、当時は船旅でしたから、ヨーロッパに帰るまでに植物が枯れてしまうことも多々あったわけです。そこで彼らは、書かれた資料を必要としました。これらの植物が何であるかを理解するために、描写は寸分の狂いもなく正確でなければならなかったのです!
  さて、我々は以下のことを心に留めておかなければならないと思います。一つは、日本はすでに、植物学や他の自然科学が発展するのに必要な基本的な土台を持っていたこと、もう一つは、日本の学者や芸術家は単純にすべてを受け入れたのではなく、有益であると自分たちで判断したものを選択的に受容したことです。私は、日本の学者たちは非常に受容力がありかつ創造的であったと考えます。例えば、オランダ人はインドネシアにも行っていたし、アジアの他の地域にも多くの西洋人たちがいたはずです。では、これらの地域ではなぜ日本において科学が発展したようにはいかなかったのでしょうか?私はいつかこの問いについて考えたいと思っています。


インタビュー後記

  ウランさんのご研究は、対象は「江戸時代の植物図」ということで単純明快ですが、それは科学の領域と芸術の領域の両方にまたがるものであり、非常に幅の広いご研究をされていると思いました。そしてメタレベルでは西洋と東洋の交流史を考えておられ、壮大で、まとめるにはとても難しそうな印象を受けましたが、やはり「植物図」という揺るがない対象があるからこそ可能になるのかとお話を伺っていて思いました。ウランさんはご自分でも植物図を描かれるそうです!とても素敵ですね。ありがとうございました。(虫賀幹華)
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