インタビュー 14

このページでは、当研究所教員へのインタビューを通じて、当研究所における研究への取り組みをご紹介しています。
第14回となる今回は、東アジア研究部門所属の小川裕充教授へのインタビューをお届けします。

小川裕充 (OGAWA Hiromitsu/東文研・東アジア研究部門教授)

小川裕充

―― 現在先生が携っていらっしゃるプロジェクトについて教えてください。

 私の所属する東洋文化研究所東アジア美術研究室では、戦後60年以上にわたり、アメリカやヨーロッパ、東アジアや日本など、国内外の美術館や博物館、寺社や個人コレクター所蔵の中国絵画調査撮影を続けています。その最初の成果が、『中国絵画総合図録』(東京大学出版会、1982・83年)、それに続くのが『続編』(同、1998―2001年)です。その間、3代の教授がこの事業を引き継いできましたが、実質的な創始者は、第2代の故鈴木敬先生です。現在、私はその4代目として、科学研究費補助金を受けながら、10年間の継続調査を行っているところです。その成果は『中国絵画総合図録 三編』として出版の予定です。

―― 今回の調査の特徴は。

 基本的には、初編・続編には含まれていない新しい所蔵者や、含まれているコレクションの新収品を増補していくという仕事です。初編の際、撮影料の関係で物別れに終わったボストン美術館での調査が、30年を経てようやく実現したのは、三編に向けての大きな成果です。『中国絵画総合図録』は、時代でいえば、もともとは清朝の半ばくらいまでだったのですが、今回は中華民国時代まで範囲を拡げました。分野も、中国風俗などを対象とするチャイナ・トレード・ペインティング(中国輸出絵画)にも拡げ、斯界の新たな研究対象として提起するつもりです。その分だけ作品の数も増え、初編の6千6百点、続編の4千点程度に対し、三編は、来年のロンドン調査を除いて、既に5千9百点ほどが掲載される予定になっています。

―― この事業の意義と今後の展望について教えてください。

小川裕充

 初編が刊行された翌年、鈴木先生を団長とする中国絵画史研究者訪中団の一員として、北京故宮博物院・上海博物館・遼寧省博物館などの名品を実見し調査することができました。その際、完成した図録を中国の研究者の方々に差し上げたのですが、すべての研究者に役立つ仕事として、非常に高く評価されたことを覚えています。「こうした事業は、本来は中国人がやるべきだが、今はその力がない。日本人がやってくれて大変ありがたい」と。その後、中国でもわれわれの仕事を参考にして、大陸の公私コレクションを対象とする『中国古代書画図目』や、台北故宮博物院の書画を対象とする『故宮書画図録』といった図録が刊行され、今では、三者相俟って、世界中に散在する中国絵画を概観することができます。

 今後は、さらに対象地域を拡げていきたいと思っています。現在検討しているのは、東ヨーロッパやロシア等です。世界中を網羅するにはまだまだ時間がかかりますが、私自身はこのあと二、三年で退官です。院生のときに初編、助教授で続編、そして教授として三編に携わり、三編を刊行し終えることによって、個人的には、30年以上に亘って取り組んできた仕事の責を果たせるわけですが、これからも研究室として続けてゆくことに大きな意義があると思っています。

―― 研究室の一大事業であるとともに、先生ご自身のライフワークとも言えそうですが、中国絵画には在学時から興味をもたれていたのでしょうか。

 実は、最初は官僚になるという名目で親元を離れ、法学部に行くつもりで東大の文科I類に入学しました。しかし、入学後すぐに、官僚というのは誰でもできる仕事じゃないか。また、誰にでもできる仕事でないと世の中を支えることはできない。たとえ支えることができないものだとしても、自分は自分でないとできない仕事がやりたいと考えるようになりました。それからは得意だった数学者を目指して進学を志したのですが、そこで大きな壁にぶつかりました。学者にとって大事なものは、与えられた問題を解く能力ではない。問題を見出す能力だということです。数学の分野において、自分にはそれが欠けていることを痛感しました。それまではやれば何でもできると思っていたド阿呆でしたが、やろうと思ってもできないことがあると分かり、ドが取れたただの阿呆になれました。院試の二次では白紙答案を出し留年して、ゴールデン街で飲んだくれ、「小川はゴールデン街で生き返った」と云われました。

小川裕充

 その後、美術史に興味をもったのは、歌詠みだった父親の影響です。子どもの頃、吟行のためにありとあらゆる社寺や展覧会に連れてゆかれたことが、原体験にありました。数学で身を立てることを諦めたあと、文Ⅰを終えていれば、何時でも法学部に入り直すことができると聞いて、心底、笑ってしまいましたが、結局は自分にとって最も身近なものに回帰することになりました。また、幸運にも、院生の時に、75年秋から冬までのアメリカ調査の末席に連なって以来、欧米をはじめとする世界の名画名品を見る機会を得ました。さらに幸運であったのは、その年の春、鈴木先生を団長として、諸先生・諸先輩とともに、台北故宮博物院創立50周年記念「宋画精華特展」に赴き、北宋時代の画家・郭煕(かっき)の「早春図」という作品に出会ったことです。私はあらかじめ用意しておいたコピーの裏表にひたすらメモを取りつつ、そこには中国画や日本画だけのものではない、何かがあると感じ、修士論文として取り組むことに決めました。それが、中国絵画に関する研究を始めたきっかけです。その何かが、人類普遍の最も高い水準であることに気づいたのは、世界調査中の75年に在米の、79年に在欧の世界中の美術の名品に接して以後のことです。

―― そのときの選択の結果が、現在まで続いているのですね。

 美術史を研究するなかでは、数学で感じたような限界は感じませんでした。というのは、この分野において、明らかにすべき問題はいくらでもあるからです。ヨーロッパ人がヨーロッパ美術について知っているほど、日本人や中国人は自国の絵画について知らないのではないでしょうか。過去には常識とされていたのに、現代では分からなくなっているということもたくさんあります。それらをひとつひとつ掘り起こして、文章や図録にしてゆく。今回の調査や今後の執筆活動は全て、その活動の一環だと思っています。

小川 裕充 プロフィール

略歴

1948. 10
生。
1973
東大教養卒。
1977
修士 (文学・東大)。
1979
東文研助手,
1982
東北大学文学部助教授,
1987
東文研助教授,
1992
東文研教授。