インタビュー 19

このページでは、当研究所教員へのインタビューを通じて、当研究所における研究への取り組みをご紹介しています。
第19回となる今回は、東アジア第一研究部門所属の黒田 明伸教授へのインタビューをお届けします。

黒田 明伸 (KURODA Akinobu, Professor/東文研・東アジア第一研究部門教授)

黒田明伸

―― ではまず黒田先生の・・・

 あ、「先生」ではなく「黒田さん」って呼んで下さい(笑)。先生って呼ばれるのが嫌で、院生さんにはそうお願いしているんですよ。

―― えっ、そうなんですか!・・・では、「黒田さん」が研究されている貨幣システムについて、分かりやすく説明していただけますか?

 はい。お金と一口に言っても、お金の働き方には、物を交換する機能や、物の価値を測る尺度、価値を蓄えていく手段といった多面性があります。私達は、それらの働きがいわば三位一体で一つのお金でなされなくてはいけないし、その一つのお金ですます範囲が広がると便利だと思い込んでいます(例えばヨーロッパのユーロのように)。けれども僕は、場合によってはそれらの機能たちが別々のもので担われていてもよいのではないか、むしろそちらの方が、長い目で見たり大きな視点で考えたら合理的なのではないか、ということを歴史的な視点から考えているんです。

例えば、日本では円というただひとつの通貨が流通しています。ですが国境地帯などに行けばいろいろなお金が使われていますね。南米のボリビアのような国では普通の買い物は現地のペソを使用していても、ちょっと大きな物を買うときはアメリカのドルを使用したりするようです。そういったお金同士の棲み分けは現在でもありうるんですが、実はお金の棲み分けというのは人類の歴史を通してずっと多数派なんです。実際、120~130年前まで、人類の9割くらいは様々な多くのお金を使い分けていたんです。

ところが現在、我々は「お金は一つ」だと思っており、この考え方は今の政治経済学での大前提となっています。でも、その考え方は非常に限られた条件下でしか通用しないんですね。アダム・スミスやデヴィッド・リカードが生活していた18世紀末のイギリスではそういった条件が揃っていましたが、当時のヨーロッパ諸国を見ると、いまだに様々な貨幣が流通していました。同時代のあるイタリア人の経済学者は、ミラノでは価値の違う金貨と銀貨が51種類も流通していることを書き残しています。

僕はもともと中国の歴史が専門なのですが、中国は世界の中でもお金の制度が複雑だったところなんです。特に20世紀の初め頃には、人々の使う貨幣は全くバラバラでした。中国では、軍隊や官僚制度といった枠組みは一つでも、とてつもない人口を抱えていたため、人々の生活は一つの原理に支配されるわけではなく、ローカルに決まりを作っていいというやり方だったんです。例えば、都市単位、職業単位で、お金が足りなかったら勝手にお金を作ったり読み替えたりすることが出来たんです。ものすごい自由競争社会ですよね。ただし、普段の生活に使うお金はバラバラでも、政府に納める税金のための貨幣単位はほぼ統一されていました。そういうバランスが上手くいっていたからこそ、中国という社会は膨大な人口を抱えていても分解せず、むしろそれらを包括できるような柔らかい構造ができていったんですね。

―― でも日常で使うお金がバラバラだったら困らないんですか?

黒田明伸

 でももしそういう状態だったら、むしろ商売ができると思いません(笑)?例えば、1930年頃の山東省のある農村市場では、地元の農民は普段銅貨で商売しているのに、青島からやって来る商人は銀貨を使っていたんです。だからそこでは、銀貨を銅貨に替えるのが商売になったんです。実際に、その市場では穀物を売る人の次に、両替屋が多かったんですよ。

だけど、「お金は一つ」、その方が便利だという考え方から始まっている現在の経済学では、その状態はおよそ合理性からはかけ離れたものでしかない。でもそれは、いわば外部から見た合理性で、現場の条件から生じた合理性とはまた違うものだと考えるべきだ、と僕は思っているんです。

―― では黒田さんの考える経済学とは、従来の経済学とは全く違う新しい方向を目指すものなのですね。

 僕は、社会の仕組みの捉え方において根本的な「ボタンの掛け違い」があると考えているんです。

現在の貨幣に対する考え方は、「お金は一つ」という前提から成立しています。その起源としてヨーロッパの研究者の間でよく言及されるのが、アリストテレスの分業論です。それは、貨幣は物と物の交換があって必要になるけれども、物の交換は、農民と農民との間では存在しない。異なる職業である農民と医者との間に成立するということを前提としています。

でもそれは、本当は間違っているんですよ。例えば、医者だって自分の手術は他の医者に頼みますよね(笑)。伝統的な農村の市場を考えてみて下さい。そこで売られている物は、主にその地域で作られた穀物や衣料品ですが、それらをその同じ地域の農民が買っているんです。これは、穀物を作る人と衣料品を作る人が分かれているからではありません。どういうことかと言うと、人間の活動は多面的ですから、一つの物だけを作っているわけじゃありませんし、いろんな時期があります。例えば、同じように米と綿花を作っている農民が二人いても、片方が米が足らず綿花が余っている、片方が米が余って綿花が足りない、という事態になれば、交換しますよね?そうやって実際に市場が立つんです。

「一人一職業」という社会モデルを前提にして社会を考えているから、社会の根本の捉え方のレベルで「ボタンの掛け違い」が生じてくるんですよ。人格と仕事を一致させた分業論から社会を考えるのではなく、人間の活動の多面性の中から分業が始まるのだ、と考えるべきです。象徴的に言えば、「財と財の交換」ではなく「時間と時間の交換」を根本に考えると、社会の仕組みの捉え方も全く違ってくるのではないかと考えています。

―― 黒田さんは、その従来の経済学の「ボタンの掛け違い」にいつ頃気付かれたのですか?

僕はもともと伝統的な東洋史をやっていて、人類史全体を考えるために歴史が長く人口の多い中国の研究を始めたんです。そこで中国の財政をみていくと、お金の問題がとても複雑で僕の勉強してきた政治経済学では全然分からない。そこで時代を遡って、ムガル朝やアフリカ、中近世のヨーロッパと比較しているうちに、僕の見ている事実の方が世界の歴史における多数派で、正統な政治経済学が前提にしている史実の方が少数派だという確信を持つようになったんです。政治経済学は多数派の歴史を前提に据えて議論していくべきだと。そう思うようになったのは20年前くらいからですね。でもそういうことを考えたら、日本の中だけで議論しても仕方がないんです。だから英語で論文を書き、海外で議論して理解してくれる人たちを増やしていこうと思いました。僕の論文がここ4,5年くらいで英語のジャーナルに載るようになり、ヨーロッパやアメリカのアフリカ学者たちなどは評価してくれるようになりましたね。経済学者って「論理的」な人が多いから、あまりにも曖昧で複雑な現実には目を背けるところがあるけれども(笑)、それではいけないという学者も中にはいて、フランスの学者なんかはアメリカへの反発もあってか僕の研究に興味を持ってくれる傾向があります。最近はもっぱらそういう学者たちとヨーロッパでワークショップをやったりしています。

黒田明伸

―― では現在の経済学の流れも徐々に変わってきているのですか?

 まだそうでもないんだけどね(笑)。でもこれから変えていきたいと思っています。現在僕は、社会の仕組みを考える為の、根本的な「ボタンの掛け違い」を理解してくれそうな人たちと国際共同戦線を張ろうとしているのですが、それを広げて主流派の経済学と戦っていきたいですね。学問、とくに社会を対象にした研究は戦いだと思っています。正しいから必ず勝つという甘いものではないし、正しいと思ったら共感してくれる仲間を集めキャンペーンを張る必要もあると思います。同じように日本の文系の研究者たちの中にも、より普遍的なところで自分たちの研究の意義を発信するような風潮が出て来るといいなと思っています。


インタビュー後記

最初に、「先生」ではなくて「黒田さん」で呼んでほしいと言われたのには正直驚きましたが、そのポリシー通りに学生との壁を作らず、気さくでとてもフレンドリーな雰囲気でいろんなお話をしていただきました。既成概念にとらわれない「黒田さん」のお人柄がご自身のご研究に繋がっているように感じました。(石原)

黒田 明伸 プロフィール

略歴

1979.5.
1980. 3.
京都大学文学部卒業
1985. 3.
京都大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学
1986. 4.
京都大学文学部助手,
1987. 4.
大阪教育大学教育学部講師
1989. 4.
名古屋大学教養部助教授
1993. 10.
名古屋大学情報文化学部助教授
1995. 3.
博士 (経済学・京都大学)
1997. 10.
東京大学東洋文化研究所助教授
2002. 10.
東京大学東洋文化研究所教授