このページでは、当研究所教員へのインタビューを通じて、当研究所における研究への取り組みをご紹介しています。
第18回となる今回は、西アジア研究部門所属の鎌田 繁教授へのインタビューをお届けします。
―― 現在の研究テーマについて教えてください。
もともとはイスラムの初期の神秘家の研究から始めたのですが、最近は、というか相変わらず今も、17世紀のモッラー・サドラーという神秘思想家に着目し、イスラムのシーア派の神秘主義を中心に研究しています。モッラー・サドラーは、アリストテレス哲学の新プラトン主義的解釈をしたもの、というイスラムの哲学の伝統を受けながら、それとイブン・アラビーというイスラムの神秘家の思想とを一つにまとめたような思想を作り上げた人です。イブン・アラビーの思想とは、簡単に言えば、「人間の認識を越えた高みにある絶対者が様々なかたちに姿を現すことによって、この世界ができあがっている」というものです。それを、モッラー・サドラーも受け継いでいます。基本的に神秘主義的な思想は、この世界は多の世界であるけれども、結局それは一なる世界に裏打ちされている、みたいなことを言います。例えばインドで言ったら、梵我一如なんてまさにその考え方ですよね。そういう考え方のイスラム版とでもいえるでしょう。モッラー・サドラーは比較的後代の人ですから、彼の思想の中にはそれまでのイスラムのさまざまな議論が組み込まれているので、彼を読むことは彼に至るイスラム思想史を勉強してしまうことにもなります。
私のもう一つの研究の柱としては『コーラン』の解釈学も挙げられるかもしれません。これももとはモッラー・サドラーの哲学書を読んでいて出てきた関心です。哲学議論の中にしばしば『コーラン』が引用されるのを見て、そんなものがなくとも議論の筋道は追えますから、最初はどうせ都合よく自説補強に引いているのだろう、くらいにしか思いませんでした。ただだんだん、ムスリムの思想家としての彼の立場を考えるとそんなにご都合主義的なものではないのではないか、と思うようになり、宗教者にとっての聖典の意味の重さを考えるようになりました。基本的にはまだモッラー・サドラーの呪縛のなかにあるような気もしますが、彼の残したコーラン註釈をコーラン解釈の流れのなかにおいて見たいと思っています。
―― 絶対者を想定して世界の成り立ちを説明する考えが神秘主義であるとすれば、イスラムの場合、絶対者としてのアッラーとこの世界は究極的には同一であるという考え方になりますよね。それは、アッラーと距離をとって、崇拝するという姿勢とどのように関わってくるのでしょうか?
実はそこがおもしろいところです。「普通の」イスラムだと、「人間というものは、神の命ずる通りに、決められた行為を行えばそれでいい」という議論の仕方ですよね。だから、法学でいえば命令を与える者として、神学でいえば崇拝対象として、創造者である神が常に上にあって、それ以外の者は人間も含め被造物ということになります。神以外のものを拝んではいけないとか、神以外の命令に従ってはいけないというのが、「神の唯一性」になります。これが普通のイスラムの考え方ですよね。だけど、そうやって被造物から遠い支配者としての神を想定すると、同時に、神に従う我々被造物の存在も考えなくてはいけなくなります。イスラムの教えは「神は一つである」と言いますが、神に対立する人間、被造物の存在を考えてしまったら、神は二つのうちの一つの存在になってしまい、それは本当の意味での神の唯一性の議論からは外れてしまうと神秘主義者たちは言うわけです。だから、最終的にはその神も人も一つになってしまうような状況こそが、神の唯一性を実現していると言うのです。こういう神秘主義者たちの議論は、普通のイスラムの学者にはなかなかついていけないところがあって、時代や場所によっては、異端者として迫害されたこともあります。
ただ、例えばキリスト教の神秘主義の場合、人格的な一者(この場合父なる神ではなく、イエス・キリストが該当)と人格的な自分が一つになる、というイメージで語られたりしますが、イスラムの場合は、キリストのような神を体現した個人という考えがないこともあって、人格的他者として神を設けて、その神と人間が一つになるという言い方はあまりしません。イスラムの神学では、神にはたくさんの名前、「慈悲深い」や「生命を与える」など、があるといいます。名前は人間の理解をこえた神そのものではありません。例えば「生命を与える」という名前で神を捉える場合、神がいて、そしてその行為の対象である生命を与えられる人間が想定されます。すると、「神の本体」から様々な行動が生まれることによって、その行動に添うような形で、被造物の存在が想定されないといけない。むしろ名前の次元での神は、名前を受け取ってくれる被造物の存在があって初めて存在するというように考えられるのです。そうすると被造物は、個々のものではないのですが、その全体が全体として神を顕現しているのだ、ということになります。こういう「この世界全体が、全体として、神を映し出している」というタイプの議論の方が、イスラム神学や『コーラン』的なイメージにより親和的だと思います。そういう意味では、神と神秘家一人が一つになるというタイプの神秘主義は、強いて言えば「イスラム的」ではないのでは、という感じがします。
―― 著作の中で、「イスラム教は、『コーラン』という絶対的なものがあって、それをどう解釈するかという宗教である」という記述を拝見しましたが、一つのテキストから、通常のイスラムと神秘主義的な解釈の両方が可能なのですね。
『コーラン』は、アラビア語で一定の文字量で書かれていて、「本」という形で存在しているものです。でも『コーラン』には、ムスリムの必要とするありとあらゆる叡知がすべて入っていると考えられています。だから、『コーラン』が何らかの形で述べていれば、どんなものであってもそれは神によって認められているのだ、という考え方も引き出すことができます。『コーラン』には、例えば豚肉を食べてはいけないとか相続財産の分割方法とか、明確な記述もありますが、何言っているのかさっぱり分からないような詩的な記述もあります。また、お互いに矛盾していると思えるような記述すらあります。ですから、文字通りの意味をとることとともに、『コーラン』の中の言葉を、いわば「深読み」して、その中に自分たちの思想を読み込むことも可能なわけです。何らかの形で自分の思想を『コーラン』の中に読み込むことができれば、とりあえず自分の思想のイスラム性は確保できることになる。そういう意味では、神秘主義者であれ、法学者であれ、解釈の入り口である『コーラン』の言葉一字一句をおろそかにしない、という面では同じですね
イスラムの議論というものは、様々な方向に展開しうると思います。それこそ今だと、暴力を是認するイスラム主義者たちも、それなりに『コーラン』を読んで、自分たちの理解に基づいて行動しているし、その限りでは彼らもムスリムと言えるでしょう。例えば『コーラン』には、「異教徒は徹底的にぶっ殺してしまえ」という言葉も実際には書いてある。だけど、「人の命を一つ救うのは、世界すべての命を救うことよりも価値がある」みたいな言葉もある。『コーラン』の多彩な言葉のある一部だけを文脈を考えずに取り出して、拡大解釈して、これがイスラムだと言うことも可能で、イスラムの歴史を見てみると、そうやって極端な解釈をしたグループはいろんな時代に現れている。でも結局そういう考え方は、ムスリムの一般的な人たちには認められないから、結局滅びていきました。最終的には、ムスリムたちの良識とでも言うようなものがだんだんと強まって、極端な偏狭な解釈が脱落していくというのが、イスラムの歴史のだいたいの流れです。
イスラム教は、七世紀初頭、アラビア半島の小さな都市から出てきた宗教で、『コーラン』もそのアラビアの文化的背景の中で出来上がっています。それが世界中に広がって、そして人間の生活様式も変わり続けていく中で、イスラムのメッセージが生きるためには、イスラム自体もそれなりの対応をしなければいけない。そういう対応を可能にする手段として、『コーラン』の多彩な解釈可能性は、とても重要だと思います。この多様な解釈を受け入れるという『コーラン』の性格が、悪く利用されれば、困ったことになる。でもそれがなければ、時代を超えてイスラムが存続することにもならなくなってしまうのです。
―― 『コーラン』とその解釈を大事にするイスラム教と、文献を大切にして、原典の精読を研究の基にしている先生の姿勢が、何だか私の中で重なりました。
イスラムの神秘主義の面白さは、前に述べた通りで、それが研究の面白さでもあるのですが、アラビア語のテキストを読んで、意味が分かったと感じられた時はすごく楽しいですね。分からないテキストはやっぱり分からないのだけど、こういうふうに読めばこうやって別のところとも繋がるとか、話が筋道立って理解できたりするということは、たぶんより正しい理解に到達したということなんだと思っています。そういった、日々のテキスト読みの中での楽しみがあります。
また、もともと宗教学にいたこともあるし、「比較哲学」とか「比較思想」とか、イスラム以外の思想、例えば仏教と対比するといったこともやってみたい気もします。ただそれで大論文を書こうとまでは思っていません。今まで通り、自分がアラビア語テキストを読みながら、議論を拾っていくというプロセスの中で、そういう局面と繋がりを見いだせたら楽しいな、というぐらいですね。宗教の研究というと、自分と全く別世界のものとして対象化し、完全に客観視して議論していく、というのももちろん一つのやり方だとは思いますが、でもそれだけではつまらないし、もったいないな、という気がします。ムスリムの人たちにしてみれば、自分勝手に好きなところだけを拾って喜んでいるだけじゃないか、と言われるかもしれませんが、ムスリムではない人間とてイスラムの理解では神によって創造された同じ被造物でしょう。その意味でもイスラムはけっしてムスリムだけの宝物ではないように思います。大悪人であっても、糞壺に蠢くうじむしであっても、すべて神の創造物であって、意味のない存在ではないと思います。他者を自分とは違うと冷たく切り捨てるような風潮もありますが、すべての存在者は神の何らかの顕現であると考えるようなイスラムの叡知によれば、他者の存在も自己の根源の現れであるという点で自分と同じであり、簡単に切り捨ててしまうことのできるものではないと思います。イスラム神秘主義の思想を研究していてこんなことを言ってしまうのは、結局、その考え方が好きだからなのかなと思いますね。
インタビュー後記
人文社会系研究科宗教学研究室の虫賀幹華と申します。鎌田先生は宗教学研究室の大先輩ということもあり、お話を伺うのをとても楽しみにしていました。先生の研究室に一歩足を踏み入れると、そこには膨大なアラビア語文献があって、とても素敵で、先生の研究対象への愛や敬意を感じました。先生のお話は非常に興味深く、また個人的には、宗教学という立場から異文化・他宗教(私はヒンドゥー教の研究をしています)を論ずる者として、多くのことを勉強させていただきました。ありがとうございました。