インタビュー 31

このページでは、当研究所教員へのインタビューを通じて、当研究所における研究への取り組みをご紹介しています。
第31回となる今回は、プリンストン大学東アジア研究学部より研究員交流としておいでいただいたケリム ヤサール先生へのインタビューをお届けします。

ケリム ヤサール (Kerim Yasar /プリンストン大学東アジア研究学部 博士研究員)

ケリム ヤサール

―― 先生が日本の研究を始められたきっかけは何でしたか?

 大学時代の専門は音楽でした。民俗音楽と電子音楽という二つの興味がありまして、民俗音楽の方は、インドの音楽や、「カッワーリー」というイスラームのスーフィーの音楽の研究をしました。電子音楽の方では、作曲をしていました。四年生のとき、友達が中国の美術の勉強をしていまして、彼の紹介で東洋を勉強している人と多く会うことができて、日本に対する興味が強くなっていきました。

 大学を卒業してから、岐阜県の中学校で一年間AETをやりました。実は大学では全く日本語を勉強していなかったので、勉強を始めたのはこのときが最初でした。アメリカに戻ったあとは少し働いていたのですが、日本の文部省から奨学金をもらいまして、東京藝術大学に二年半留学しました。このときはまだ民俗音楽学という専門を続けていて、日本に関して言えば、日本語の能力が向上したことが一番の成果でしょう。芸大の留学が終わると、コロンビア大学の大学院に入って、日本文学、特に近現代の文学の勉強を始めました。そのときに、それまでの音楽の勉強、特に電子音楽の経験を自分の研究に生かせないかと思いました。それで、近代日本の聴覚メディア、聴覚メディアと文化の関わりについて研究しようと思いました。

―― 先生の主著の題名は、Electrified Voicesですが・・。

 そう、日本語では「電化された声」と訳せばいいのでしょうか。具体的には例えば、電信、電話、蓄音機、ラジオ、トーキー映画です。明治時代におけるこれらの技術について詳しく見てきたのですが、明治時代には言文一致という運動がありましたよね。話す言葉と書く言葉について、インテリがいろいろと考えていた時代だったのです。例えば電話は、人間の話した言葉、肉声そのものではないのですが、それを「伝える」ことができる。つまり、「距離」がなくなりますよね。他には蓄音機も研究していますが、話された言葉が「保存」できるようになりました。それは人間の歴史の中ではじめてでした。こういう技術が生まれると、「話す言葉」と「書き言葉」つまりoralityとtextualityの問題が出てくるのですが、これが私の研究の一つです。

ケリム ヤサール

 もう一つは、ラジオについてです。ラジオが登場したのは1925年頃ですが、そのあとすぐ、ラジオドラマという新しいジャンルが生まれました。ラジオドラマは、文学や文壇とも関係がありました。例えば、菊池寛や小山内薫などがラジオドラマ研究会という組織のメンバーになって、こういう新しいジャンルをどのように考え、どのように作るべきかという問題を考えていました。つまり、ラジオという新しいメディア技術ができたからこそ、新しい文学的なジャンルが生まれ、新しい面白い問題が出てきたんです。例えば、ラジオを通してでは何も見せることができず音しか使えない、そのときにどう表現するのが一番いいのかという論争がありました。小山内薫は芝居の人間でしたから言葉を大事にしていて、音のみのラジオドラマでは言葉をできるだけわかりやすくして作るべきだと主張しました。しかし他の人は、ラジオは新しいメディアで新しい可能性があるのだから、古臭い考え方、つまり言葉だけを重視する考え方を捨てて、サウンド・エフェクト、音の効果を大事にしようということ言いました。音の効果によって生まれる空間的雰囲気などといった、新しい可能性がありました。ちなみに音の効果というと、映画でも重要な役割を果たしますが、そういった「音の効果」という「芸術」も「技術」も、ラジオドラマで生まれたんです。声優というのも、アニメの前に、ラジオドラマで発達したものでした。ラジオドラマの黄金時代は1950年代でしたが、その時代のラジオドラマはテレビドラマのモデルになったんです。だからラジオドラマは非常に重要な文化的現象だったと思います。自分の研究の具体例としては、これが二つ目です。

―― 今までお話いただいたことは、日本に限っての現象だったのでしょうか?

 そうではないです。というのは、こういうメディアの発達は西洋でも日本でも、だいたい同時でしたから。ただ、それに対してのディスクールは、微妙に違いました。例えば、そのラジオドラマ研究会は、日本の場合は、文壇という概念が非常に関わっていました。世界中どこにでも文壇というものがあったわけではないですし、やっぱり日本的な現象だと思います。日本には文壇があったからこそ、ラジオドラマ研究会という団体も生まれた。そういう文化的な差異があると思います。

―― 文壇が積極的にラジオというものに関わっていったということが興味深いです。ラジオの普及とともに、共通語としての日本語が広がり、日本の文化的な統一も進んでいったように思うのですが・・。

 断っておかなければならないのは、私の書いている歴史は、都会の歴史だということです。日本のラジオ局は、東京、大阪、名古屋、そしてソウルに拠点を持っていました。日本各地の統一と外国の植民地化が同様に行われていたといえるでしょう。当時ソウルは、日本の地方よりも日本の都会の文化圏に組み込まれていたといえます。

 ラジオの普及のスピードには波があって、最初の大きな波はやはり満州事変のときでした。ラジオは新聞よりも早く情報が伝わりましたし、人びとが「情報を聞きたい」と思う状況は、ラジオ普及にとても大きな役割を果たしました。1932年のロスオリンピック、1936年のベルリンオリンピックももちろんそうでした。ただこれは都内への普及の波で、地方への普及は更に時間がかかりました。

ケリム ヤサール

 文字の読めない人にも情報が伝わるようになったということに加えて、ラジオと新聞との違いとして大きいのは、「臨場感」ではないでしょうか。新聞を読むというのは冷静な行為です。ロスオリンピックのときには、ラジオで生放送、いや本当は生ではなく録音したものだったんですが、音によって伝わる興奮は大きなものだったでしょう。そして特にベルリンのオリンピックは、当時のナショナリズムを高揚させました。水泳やリレーの放送をするときに、語り手は非常にうまく興奮を伝えました。ナショナリズム、ファシズム、ミリタリズムという現象に対して、ラジオは大きな役割を果たしたと思います。自分の研究しているメディアの中で、一番大切だと思うのはラジオですが、それは政治的にも文化的にも、いろんな面から見て大きな変化をもたらしたからです。

―― 日本人としては何だか嬉しいのですが、日本の研究をこのようにずっと続けていらっしゃるのは、日本のどういうところがおもしろくて、でしょうか?

 日本は古代から、中国や韓国の文化圏からいろんな影響をうけて、それらを何となく日本化して、自分たちのものに直したわけですよね。外から影響を受けながら自分のアイデンティティを作るというのは、日本文化の一つの形だと思っています。ただ受け入れ方は様々で、素直に影響を受け入れることも、反対することもありましたよね。例えば国学者は、日本的なものを守ろうと言って反対しましたでしょう。(ただ、彼らは同時に漢学の達人でもあったわけですが。)そういう考え方には危険もあるかもしれないのですが、今のグローバル化された世界の中では、こういった才能は大事だと思います。

 私自身も、トルコ生まれ、アメリカ育ち、日本の研究者という三つのアイデンティティがありまして。いろんな文化的な影響・アイデンティティの中でどのようにバランスをとるか、どうやって自分のアイデンティティを他者から作れるのかということは、僕にとっての個人的な、一生の問題です。日本という文化の経験をみると、何だか似ているところがあるんじゃないかと思ってしまいます。だからこそこんなに長く興味が続いていますし、たぶん一生の興味として続けると思いますね。


インタビュー後記

ケリム先生は、日本語のスキルはもちろん日本に関する知識や考察が本当に深く、正直なところ近代日本文学を数えるほどしか読んだことのない私は、自分の無知を恥じながら、非常に興味深く先生のお話を聞かせていただきました。また本文には載せられませんでしたが、日本の古典映画の英語字幕を作成するというお仕事もされていて、これまで70本以上の映画を訳されたそうです!日本語・英語の両方で長時間にわたるインタビューを受けていただきましたが、最後の写真撮影までさわやかにこなしてくださいました。ありがとうございました。(虫賀)