インタビュー 20

このページでは、当研究所教員へのインタビューを通じて、当研究所における研究への取り組みをご紹介しています。
第20回となる今回は、復旦大学の文史研究院より研究員交流の第一陣としておいでいただいた朱 莉麗先生へのインタビューをお届けします。

朱 莉麗 (Zhu Lili /復旦大学文史研究院 助理研究員)

朱莉麗

―― この度、朱先生は上海の復旦大学の文史研究院より、研究員交流の第一陣として一ヶ月(2010年10月中旬〜11月中旬)、東洋文化研究所においでいただきました。東洋文化研究所と復旦大学はどのような関係にあるのですか?

 はい。現在、復旦大学文史研究院は、東洋文化研究所と、プリンストン大学東アジア学部・研究所との三者間で、学術交流コンソーシアム協定を締結しています。これは三者間の協力によってアジア研究を国際的に進めようとするものです。復旦大学文史研究院は2007年3月に設立されたばかりの新しい研究所であり、中国教育部の指定した国家哲学社会科学創新基地として中国全体の学術レベルの向上を目指すことを目標としています。当研究院は、中国文学、歴史、哲学研究の場として、文学・歴史・哲学などの異なる学科間の交流と融合を図り、世界的視野にたった中国文化研究を推進し、また各種の新文献と新資料の整理を進め、中国における文学・史学研究のための国際的で開かれた学術研究機構となることを目指しています。様々な専門を持つ研究者が多く在籍しているという点では、東洋文化研究所と雰囲気が似ていますね。また現在、復旦大学文史研究院では、日本や欧米で行われている中国学を見直したり(批判の中国学)、どのように世界の文化が交錯していったのかを検討したり(交錯の文化史)、また絵や美術作品に描かれた中国イメージから歴史を復元することなどを研究テーマに掲げています。

―― ところで朱先生はとても日本語がお上手ですけれども、日本語の勉強はどうやってなされたのですか?

朱莉麗

 実は2005年くらいから独学で日本語を勉強し始めたんです。勉強の為に日本のドラマも200本程見ました(笑)。ドラマは今の日本人の若者文化が分かるのでとても面白いですね。ジブリ映画も好きです、特に「となりのトトロ」とか(笑)。その後、博士課程の時に山口県に一年程留学していました。その頃から、「南北朝時代から安土桃山時代における日本人の中国観」に関する研究をしています。

―― 先生の研究方法はどのようなものですか?

 日本では遣唐使が有名ですけれど、明代にも「遣明使」というものがありまして、策彦周良(さくげんしゅうりょう、1501-1579年)というお坊さんが遣明使団の副使、および正使として二度中国に渡りました。彼は中国での滞在記を『初渡集』、『再渡集』という個人の日記として書き残しています。その中には、実際彼が中国でどのような対応を受けたのか、どんな食事をし、どんな知識人らと交流をしたのか、またその印象などが書かれているんです。それに比べ、中国の『大明会典』などの法典では、外国使節の朝貢礼に関する規定が定められてはいるのですが、それが実際にどのように行われていたのかという詳細な記述はありません。そこで策彦の『初渡集』や『再渡集』は明代の中国と日本の交流の実態を知るための非常に貴重な資料となるのです。

―― 例えば、『初渡集』や『再渡集』にはどんな内容が書かれているのですか?

私が面白いと思ったのは、遣明使は寧波から中国に入るのですが、そこから北京までの詳細な道のりや運河を渡る様子、その際の交通手段や、荷物を運ぶための人足や食料のことなどが事細かに記録されていることですね。その当時の江南地方というのは文化的に発展していて、日本人の憧れの土地でもあったようです。ですから都市の城壁や建築物がどのようなものであったのかとか、町でどんなものが売られていたのかなどの人々の日常生活なども詳しく描かれています。当時の生き生きとした都市の様子が浮かび上がってくるようですよね。策彦は、柯雨窓や豊坊のような当時の有名な中国の文化人、知識人とも多く交流をしており、皆で集まってどんなものを食べて、どんなお酒を飲んで、ということまで書いているんです。面白いでしょう、お坊さんなのにお酒も飲んでいたんですよ(笑)。あと、中国の文人達から食べ物やお酒、書道の道具、自分たちの書いた書や絵などのプレゼントもたくさんもらっていたそうです。策彦はそのような中国人らのもてなしに対して、申し訳ない程の感謝の気持ちも書き綴っています。

朱莉麗

―― 中国の文化人らが、日本の朝貢使節をそのように歓迎したのはなぜなのでしょうね?

 当時の日本人が中国に憧れを抱いていたように、当時の中国の知識人も、自分たちと同じ中国的知識や教養をもつ日本の知識人に憧れや尊敬の気持ちがあったのだと思います。寧波は策彦が来る以前からも遣明船が到着する場所だったで、寧波の知識人の間には日本の知識人に対する親近感もあり、日本から優れた文化的教養を持つ人々がやって来るのならば是非会いたい、一緒に詩や書のやりとりを楽しみたいという思いがあったのだと思います。

―― なるほど。確かに外国の人々に対して興味や好奇心を持つ気持ちはすごく分かります。今のように簡単に海外に行けない時代だったら、外国から使節が来るとなればお祭り騒ぎのようになるかもしれませんね(笑)。朱先生は今後も引き続き、明代の日中関係をテーマに研究されるのですか?

 はい。今回は策彦周良というお坊さんの日記を資料として用いましたが、今後は将軍や大名などの記録や、少ないとは思いますが商人らの記録などを取り扱うことも視野に入れながら、研究を進めたいと考えています。昔の中国では、日本の資料を研究に用いるのは難しいことでしたが、幸いにも現在私達は、より簡単に日本の資料を手に入れることができます。やはり中国にある中国の資料だけを見ていては、偏った歴史観に陥ってしまうと思うんです。私は、日本をはじめ、その他諸外国の資料を積極的に用いることにより、はじめて「周辺から中国を見る」ことができ、現在の中国の歴史研究の欠落した部分を埋めることができると考えています。同じように、中国に残る日本に関する資料を用いることにより、歴史上の日中関係もより正確なものとして再現できるのではないかと思います。このように相互に補い合いながら、中国と日本との交流の歴史をより鮮やかに浮かび上がらせることができればいいなと思いますね。


インタビュー後記

朱莉麗先生はとても明るく若々しい女性研究者で、日本のドラマや共通の知り合いの話題などで盛り上がり、ほのぼのとした雰囲気のインタビューとなりました。また、中国語の通訳と記事の校正において、東洋文化研究所の大野公賀先生に大変お世話になりました。ありがとうございました。(石原)