インタビュー 15

このページでは、当研究所教員へのインタビューを通じて、当研究所における研究への取り組みをご紹介しています。
第15回となる今回は、西アジア研究部門所属の辻 明日香助教へのインタビューをお届けします。

辻 明日香 (TSUJI Asuka/東文研・西アジア研究部門助教)

辻明日香

―― 研究に関して、現在の興味・ご関心をお聞かせ下さい。

 イスラーム期西アジア社会の歴史、とりわけエジプトのキリスト教徒である、コプト教会信徒の歴史に興味を抱いています。

現在の西アジアの領域の大半はビザンツ帝国内にあったため、6世紀頃にはほぼキリスト教化していました。しかし7世紀半ばに始まるアラブ・イスラーム軍による征服活動の結果、西アジア地域はイスラーム化していくのですが、これは各地で様々な展開を見せます。例えばエジプトはなぜかイスラーム化が遅く、14世紀頃まで人口の50%ほどがキリスト教徒であったと考えられています。現在でもエジプトの人口の10%程度はキリスト教徒です。つまり、14世紀まではムスリムは社会において圧倒的な多数派ではなく、エジプトはイスラーム・キリスト教・ユダヤ教と3つの異なる宗教に属する人たちがいわば共存している社会でした。私は、これがどのような社会であったのかということに関心を持っています。

―― 具体的にはどういった研究をなさっているのですか?

14世紀のエジプトに生きたコプト聖人の言行について記録した聖人伝の記述から、著された当時の社会や文化を研究しています。

この時代、エジプトはイスラーム政権下にありますし、現存していて私たちが手にとることができる資料は圧倒的にムスリムが著したものであることが多いです。ですから、従来の研究において、14世紀のエジプトはムスリム社会であることがある種の前提となっていたと思うのですが、調べていたらキリスト教徒が書き残したものも相当存在することに気づきました。そこで、「西アジア=イスラーム」という思い込みを取っ払って、中世のエジプト社会を見ようとしています。

―― すごく面白い着眼点だと思います。どのようにしてこのような関心をもたれるようになったのですか?

辻明日香

 大学でイスラーム史を専攻すると、キリスト教徒やユダヤ教徒は庇護されていて、マイノリティーではあるが社会で一定の役割を負っていると教えられます。私はムスリムとキリスト教徒やユダヤ教徒との関係に興味を持ち、社会の多数派が少数派に対して抱く感情や態度が、少数派の生活へどのように影響するのかということを卒論や修論でテーマとしました。しかし、考えてみれば人口の10%はマイノリティーとしては大きな数なのですよね。エジプトに留学して、中東のキリスト教徒は、通常のマイノリティーの定義からはやや外れているのではと思い始めました。そこで、ではこの人たちは社会においてどのような存在なのか、という疑問を抱きました。

あともう一つは、宗教は異なっても、ムスリムもコプトもエジプト人であるということです。近年はムスリムとキリスト教徒との関係が良好とは言い難い面もあるのですが、人類学の報告などを読んでいると、特に農村部ではムスリムとキリスト教徒の生活習慣がさほど変わらないのです。信仰生活は異なるのですが、死者に対する態度など、ムスリムであろうとキリスト教徒であろうと、価値観や習慣に差がないことが多い。乱暴な言い方をすると、両者とも古代エジプトからの習慣を守っているのではと思ってしまうぐらいです。

そこで、エジプト、ひいては西アジアの社会を理解しようとする時に、イスラームというのは重要なツールではあるけれども、必ずしも絶対的なツールではないのではと思い、イスラーム以外の視点から西アジアを見てみたくなりました。最終的にはイスラームとは何か、という問いに戻ってくるのではと思うのですが。

―― 先生は研究のどのようなところに面白さを見出していらっしゃいますか?

一つは展開が読めないから面白いということが言えます。イスラーム期以降に著されたコプト聖人伝は、今までコプト学研究者からもイスラーム史研究者からも見向きもされませんでした。ほとんどの聖人伝は校訂されていませんし、そもそもどれほどの数の聖人伝が現存しているのかもわからない。最近は写本の所蔵情報が充実してきたのですが、写本を入手したとしても、その内容や特徴については紹介程度の情報しかない。どのような聖人伝であるのかわからないまま読み始めて、そこから聖人が生きた世界が見えてくる。これが面白くてたまらないです。

また、聖人伝の内容、とりわけ聖人が行った奇跡に関する話自体も面白いです。食べ物を増やしたり、死者を蘇らせたり、瞬間移動をしたり。奇想天外な話が多いです。そのような逸話が続くと、さすがにあきれそうになるのですが、当時の人々はこのような話を信じていた、または聖人ならば奇跡を行えて当然であると思っていたのですよね。その上聖人伝には、同じ時代に関する歴史書には述べられていない、日常生活のディテールが現れます。当時の人々の生活について、今まで知られていた以上の情報がどんどん出てくるのが、今研究していることの面白さかなと思います。

辻明日香

―― 先生の今後の展望について聞かせて頂けますか。

私が研究しているのはエジプトにおける14世紀のキリスト教の聖人なのですが、同じ時代に、ムスリムの聖者も活動しています。彼らの共通点や相違点を明らかにするには、イスラームやキリスト教の文脈における説明が妥当ですが、私は人びとの生活や信仰に密着した形で、彼らの役割やニーズの違いなどを研究したいと思っています。

私が研究している聖人のルーツは、古代末期に地中海世界に現れた修行者・苦行者にあります。しかし彼らの末裔は活躍した地域により、ヨーロッパ史あるいはイスラーム史いずれかの枠組内で研究されています。中世のヨーロッパ史を研究する上でもイスラーム史を研究する上でも、聖人崇拝というのは非常に重要なテーマです。しかしコプト聖人は、キリスト教の聖人でありながらヨーロッパではなく西アジアの聖人であり、西アジアで活躍しながらムスリムではない。とすると、ヨーロッパ史あるいはイスラーム史といった枠組を外して聖人の特質とその社会的意義を見つめられるはずです。そこからさらに、聖人を切り口に人間の営みというものを捉えられるように研究していきたいです。これが現在の課題であり願望です。

あとは、西アジアのユダヤ教徒やキリスト教徒について同じような関心を持っている人たちと、もっと大きなムーブメントを作っていけたらと思っています。

辻 明日香 プロフィール

略歴

1979.5.
生。
2003.3.
東京大学文学部卒。
2005.3.
東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了。
2006.9.
平和中島財団日本人留学生(カイロ大学文学部歴史学科聴講生 2008.3まで)。
2008.4.
日本学術振興会特別研究員(DC2 2009.3まで)。
2009.3.
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程退学。
2009.4.
東洋文化研究所助教。