このページでは、当研究所教員へのインタビューを通じて、当研究所における研究への取り組みをご紹介しています。
第25回となる今回は、東アジア第一研究部門所属の平勢 隆郎 教授へのインタビューをお届けします。
(2011年10月収録)
―― 平勢先生のご専門は、中国の春秋戦国時代だとお聞きしたのですが、研究を始めるきっかけは何だったのでしょう?
私の場合、「研究対象の方からやって来た」と言った方がいいでしょうか。自分から本気になってのめり込んだというより、やらざるを得ない状況になって、結果こうなったということで。
研究のきっかけと言うと、高校のころ、受験勉強のために、漢文のテキストを読んだことが始まりです。偶然、最初に手を出したのが『史記』と『春秋左氏伝』でした。後者は、読むのがとても難しいんです。なので、いろいろな解説本を使って読んだのですが、そこに出てくる話題がとても面白かったんです。それらには、こんなに細かいことまで分かるんだ、と驚く程の、百科事典では知り得ない内容が書いてありました。もちろん、漢文はまだそんなにやっていなかった時のことなので、「ここまで分かるらしい」ということですけれど。その時の気持ちが、伏流水のように流れていて、後で形になってくれたということになります。
春秋時代には、何十もの国が存在していたのですけれど、大きな国のことは『史記』を読めば大体分かるんだと、大学に入学した当初は思っていたんです。でも、実はそれは大きな間違いだ、と後に自分の研究で気付くんですけどね。だから、『史記』はひとまず措いておいて、『春秋左氏伝』やその注釈に書かれている小国の話題をカードにまとめ始めたんです。その時は、その作業が専門の研究になるなどとは考えない、軽い気持ちのものでした。趣味で続けられればいいやって。それが、卒業論文を書く頃には、大体ひと通りのカードの書き込みが終わり、それを元に卒業論文を書いたんです。幸いなことに、それで大学院に進学できたので、中国の春秋戦国時代の研究が私の専門になりました。
その後、幸いなことに割と早くに鳥取大学に就職しました。でも鳥取の人は、中国の春秋時代のことなどどうでもいいわけです。その頃の日本は、弥生時代もまだ始まってないとされている時代なので、多くの人たちは何の興味も持たないんです。そうすると、どうしても対象とする時代が下ってきて、仏教が伝来した時代に話が向く訳です。そういう人たちを相手にするので、私もそれに合わせて中国の話をしなくてはいけなくなりました。このおじいさんからこんな質問をされたから、私もきちんと答えなくてはいけないとか、このおばあさんはこんなことに興味を持っているから、こんなことを教えてあげよう、という風に、否が応でも勉強しなきゃならなくなりました。
―― では次に、先生の研究方法について具体的に教えていただけますか?
先ほど言ったように、卒業論文と修士論文を書き、就職をした頃までは、資料を調べ、調査をして、カードを作って、そこから問題点を導きだしていくというのが私のやり方でした。実に一般的な方法ですね。
ところが、私の研究内容から方法にいたるまで、大きく変わった時期があるんですよ。80年代に、当研究所の松丸道雄先生が中心になって行われていた中国史の概説書づくりに、私も参加することになり、改めて網羅的に史料を読む必要が出来ました。これも、私がやろうと思ったのではなく、向こうからやって来た仕事なのですが。そこで、改めて分かったことがありました。それは、『史記』の記述には年代矛盾が非常におびただしくあるということです。これは、ちょっとでも真面目に史料を整理したことがある人なら、誰しもが気付くことなのですが。
ちょっと面白い話題に話を振りますと、小説家に宮城谷昌光さんという人がいるんですね。私は彼と対談をしたことがあるんですよ。彼も「『史記』の年代矛盾ってたくさんあるんだよね」とおっしゃっていました。その時私は、宮城谷さんは自分でもたくさん史料を読んだ上で、小説を書いていることを悟りました。司馬遼太郎さんからも、お亡くなりになる直前ですが、お葉書をいただいたことがあります。「百編の論文が生まれそうな、生まれるのをからくも抑えて大年表に集中された学問の精神」とありました。宮城谷さんと同じですね。
私もその年代矛盾が最終的にどれだけになるか、分かって研究を始めた訳ではないんですが、問題があるならば私が解決してやろう、と欲が出て、試行錯誤しているうちにアイデアが浮かんで、そして、ああでもないこうでもないと考えているうちに、おおよその基本線が出来上がったんですね。そこで、その基本線に従って整理をしていくと、矛盾がきれいに解けるということが分かったんです。年代が議論できる部分は、始皇帝の天下統一までに限っても、『史記』の中に2900カ所ほどあるんですが、そのうち830カ所以上で矛盾が生じています。その夥しい矛盾が出来上がる過程の復元に成功しました。矛盾はきれいに解消されました。『史記』当時のある作業がからんでいたんです。その作業を復元することによって、そのおびただしい数の年代矛盾が生じた過程を一つ一つ辿って、そして一つで何十、何百もの案件が処理できるような条件を使って、『新編 史記東周年表—中國古代紀年の研究序章』(東洋文化研究所・東京大学出版会、1995年)にまとめました。時間と膨大な史料量との戦いでした。若い時だからできた本です。
―― 年代矛盾を解決する基本線とは、一体どのようなものなのですか?
簡単に言いますと、中国における戦国時代というのは紀元前5世紀から紀元前221年までの間ですが、その戦国時代の中期の後半、紀元前4世紀後半に、中国の政治制度が大きく変わるんですね。その際に、年代の数え方も大きく変わるんです。それを受けて、司馬遷たちの生きた漢代が来る訳ですが、漢の学者は戦国時代に起こった大きな制度的な変革というものが見抜けなかったのです。彼らは、自分達の時代の制度がずっと昔まで遡れるものだと考えて、史料の整理をしてしまった。その結果、あちこちにとんでもない年代矛盾を作り出してしまったのです。だから、司馬遷たちがこんな間違いをしたんだということが復元できれば、本来の方法にそって、正しい年代にたどりつけます。たどりついた正しい年代で比較すると、矛盾ができない。
こうして大きな変革の中身が議論できるようになると、それは、膨大な年代矛盾をかかえたままの『史記』から得られる内容とは、あちこち違ってきます。だから、いろいろ詰めの作業が必要です。例えば、その変革のいくつかは孔子の行ったものとされていますが、孔子が亡くなったのは紀元前479年なんです。変革が起こったのは紀元前4世紀の後半です。孔子が死んでから百何十年経った後に出来上がった制度が、孔子が作ったもののように説明されているのはおかしいです。
戦国時代に成立した経典はどのようなものだったのか、それらの前代の史料をどう整理したのか、さらに下って、漢代にはどう再整理されたのか。これらは歴史の問題というより、中国学の伝統的議論や、近代以来の新しい解釈に関わります。ですので、初めに私が「年代矛盾は、司馬遷が整理を間違ったせいなんですよ」と言った時には、皆さんが「すごいね、面白いね」とおっしゃったのですが、「そうすると、これは中国学の“伝統解釈”に深く関わってくるかもしれませんよ」と言った途端に、皆、突然「身構えた」のです。そして今も、「身構え派」が圧倒的多数なんですよ。いわゆる「伝統解釈」と近代以来の「新しい解釈」の違いも、検討されていないかもしれません。
―― やはり研究において、新しい説を出すのは大変なことなんですね。
だから私も10年間放っておくことにしました。その間、よく考えて下さいということで。私はその間に、どんどん自分の作業を詰めていきました。そして10年待ちましたが、結局反論はありませんでした。私の見解でないものを、私の意見だとして批判した人――なぜかその人の意見が私のものだったりして――はいましたけれど。
私の研究内容は、考古学者蘇秉琦先生等の研究を参照すると、考古学の成果とうまく接合することもわかってきました。北京大学の百周年記念行事にも招かれました。考古系から呼ばれたらしいのですが、行ってみると歴史系から呼ばれた事になっていました。「お前は途中でさらわれてしまった」と耳打ちされました。内容的には歴史で呼ぶべきだということになったのでしょう。
―― では最後に先生が現在行っている研究内容や、今後の展望などを教えていただけますか?
「詰め」の作業を継続しています。
それと別の研究テーマもあります。それも向こうからやって来たものです。わが研究所には、建築学者関野貞が残した写真資料が膨大に存在します。工学系研究科にも同種の写真資料が膨大にあります。それらを工学系研究科の藤井恵介先生たちと一緒に整理しています。
人間文化研究機構の大きな研究グループからのお誘いもあり、我々は、関野貞大陸調査の調査地を再調査することになりました。すでにこの調査研究は始まっています。80年前~100年前の調査写真と現状とを比較していると、昔はあって今はない、という建築や墳墓は結構あるんですね。関野貞は、我が国の文化財保護行政を軌道に乗せた人でもあり、彼の残した写真が、国境を越えて新しい保存事業に役立つかもしれません。
インタビュー後記
平勢先生はとても穏やかな雰囲気の先生でしたが、淡々とした語り口の中にも自己の研究に対する熱意を感じました。従来行われてきた方法論に対して新しい視点を提示することの難しさと、それに屈せぬ強い意志を持つことなど、研究者としての姿勢を学ばせていただきました。(石原)