このページでは、当研究所教員へのインタビューを通じて、当研究所における研究への取り組みをご紹介しています。
第23回となる今回は、汎アジア研究部門所属の菅 豊 教授へのインタビューをお届けします。
―― 現在の研究テーマを教えてください。
私のホームページを見ていただければ分かるように、私はこれまで様々なテーマを扱ってきました。そしてそれらのほとんどを現在でも続けています。一つのテーマを終えて、次に移って、直線的に研究が進んでいくというイメージではなく、一つのテーマをある程度やって、一区切りついたら、違うテーマに移って、そしてまた戻ってくるという、螺旋的に上昇していくイメージの方が近いかもしれません。すべての研究が最終的にはリンケージすると思っているのですが・・・それで・・・どこからお話ししましょうか。
―― では、一つ質問で、先生のホームページを拝見しましたところ、「民俗学」にこだわりをもっていらっしゃる印象を受けたのですが、そのあたりから聞かせていただけますか?
日本の近代に発展した学問は、ほとんどが西洋起源です。日本の場合、明治時代にここ(=東大)が中心になって、西洋の「知の枠組み」を移植しました。柳田国男は、そうではない新しい学問として、日本独自の知の枠組みを作ろうとしたのです。柳田は、野の学問を標榜しましたが、対象を野に求め、学問の知の体系も、野、つまり大学ではない場所で創ろうとしたのが民俗学でした。しかし1950年代以降、民俗学がアカデミズムのなかに入っていくと、非体系的であるとか、方法論の問題で壁にぶち当たるわけです。そして、民俗学の、学問としての新しい展望が見失われた時期が、1990年代から2000年代初め頃です。私の学問的な出発点は民俗学ですが、その時期に、私は民俗学を飛び出してディシプリンに関係なく、研究を広げる方向を選択しました。現在でも取り組んでいる、地域の自然/文化資源の使用・所有・管理、コモンズ論のような研究は、当時から学際的、国際的な課題で、政治学、経済学、社会学、人類学、そして様々な自然科学の人びとが関わっていました。いまでも、私が実際やっていることは、ディシプリンなんて関係なくやっています。
ところが私は、民俗学にある種の可能性を感じて、再度、戻ってきました。既存の学問は、ミクロな研究と称しながらも、人の顔が見えないような研究が多いと思います。民俗学は、人の顔が見える等身大の世界からスタートする学問です。ただ、これまでの民俗学は、ミクロな部分だけで終わっていました。その視点を、拡大しようと考えています。一個人、あるいは一つのコミュニティを起点として、そこで起こった様々な事柄が、小さなフィールドから出て、どう繋がっているのか、という方向で物事を捉える。実は、今やっている私の「錦鯉の研究」がその典型です。錦鯉はもともと、新潟の小千谷市、山古志村(現長岡市)の僻陬の山村で、百数十年前に生まれて、その地域の物好きな人たちが担っていた小さな文化でした。いまでも、そこが錦鯉の主産地です。錦鯉は、大正年間に東京大正博覧会に出品されたとか、昭和天皇に献上したりして、だんだんと日本中に広がっていく。様々なメディア、政治家等が関わって、爆発的に広がったのは、昭和40年代です。田中角栄は、日中国交正常化のときに、自分の選挙区の産物であった錦鯉を周恩来にプレゼントしています。向こうからはパンダでした。つまり、国際外交の場にも使われたのです。そして1960年代末に錦鯉は、日本の「国魚」と呼ばれるようになったのです。小さな地方文化が広がって、全国の文化になって、政治等も絡みながら、錦鯉は日本を代表する魚として認知されていきました。
同時代的に、錦鯉は世界に広まっていきます。いまでは、錦鯉はkoiという名称で世界に広まり、英語辞書にも載るほどです。海外で、錦鯉を最初に受容したのは、ハワイなどの日系人たちでした。彼らは「祖国の文化」としてそれを受容したのです。実はこれは非常に面白い話なんです。「錦鯉」という名前は大正年間にできて、日本に広まり定着したのは第二次世界大戦後であって、その日系人やその親たちが日本にいた頃には、それほど広まっていなかったはずです。彼らは、自分たちが携えてきたものではなく、後から受け入れた創られた日本文化を、自分たちの故国・ホーム・ランドの文化として後から受容したわけです。その後、錦鯉は、非日系人にも次第に広がっていきました。例えばヨーロッパでは、オリエンタリズム的な文脈で受容されていきました。ヨーロッパのコイ・ショーに行くと、石灯籠、鶴、赤塗りの太鼓橋など、日本風庭園を造るためのものを売っています。要するに、彼らの「ジャポニスム」的な文化のなかに錦鯉は入っていくんです。また中国や韓国風のもの、さらに東洋風だけど無国籍の物も売られています。
一方、中国における錦鯉の受容の仕方は、「自文化化」といえます。実は中国には、縁起のいいものとして、また食用として、鯉の文化がありました。でももともと中国にいたのは、赤や黒の鯉で、錦鯉ではなかった。しかし、いまでは多くの場所、例えばホテルやレストランの庭、さらに伝統的な庭園の池に錦鯉が浸透し、それが違和感なく受け止められている。最近では、伝統的な絵画である花鳥画のなかにも、錦鯉が描かれ、それが日本起源の魚であることに、一般の人びとは気がつかない状況にあります。要するに、錦鯉は日本の文化なのに、それを自身の文化として無意識に受け入れる素地があったのです。このような無意識な浸透とともに、一方で、日本の錦鯉は中国起源であるなどとする、歴史を積極的に書き換えようという意識的な自文化化の動きも、さらに起こっています。
このような状況を、ミクロにはじまりミクロに終わる民俗学では捉え切れませんでした。この限界性をもった「20世紀民俗学」を乗り越えるということが、私が現在取り組んでいるテーマの一つでもあるのです。ミクロ、一人の個から上がっていくような研究をする分野は、ほとんどなくなっています。もちろん、このような錦鯉に纏わる現象を、グローバリズムというマクロな観点から捉えて論文を書くこともできます。私の場合は、フィールドワークをして、例えば一人の田舎のおじいさんが、どうグローバルな場に登場していくのか、というところに関心があります。今度、私はハワイのコイ・ショーに調査に行くのですが、そこでは新潟の山のなかで錦鯉を生産する、一人のおじいさんについて行くんです。新潟の小村に住む人たちが、実は飛行機に乗って、ヨーロッパやハワイに行って、コイ・ショーに参加し指導する、あるいは商売をするといった営みをしている。そこで文化が伝わっていく。あるいは双方向的に文化が変化する。こういったあり方を調べるには、ミクロを出発点とする民俗学が大きな可能性をもっているのでは、と考えています。
―― 角突き(闘牛)の研究もされていますが、それも同じような方法を採られているのですか?
私、小千谷市で闘牛を飼っているんですよ。天神、七歳、一トン(笑)。まあそれはいいとして、もともとは、民俗学の普通の研究、要するに地域の動物文化の研究として、普通の調査を小千谷でやっていました。その研究は、いまも継続してはいますが、あるとき、大事件が起こりました。このフィールドは、錦鯉と同じ新潟の小千谷市だったんですが、2004年に中越大地震が起こります。そこはまさにその震源地でした。そのとき、フィールドワーカーとして長年付き合ってきたその地域に対して、学問として何もできないことに気づいたんです。私は地震の二週間後にそこを訪れたのですが、多くの人、牛が死んで、家も崩れて、壊滅的な状態でしたから、牛の角突きはしばらくないだろうなと思っていました。だからそのとき、避難所の体育館で、「角突きを復活させよう」という話し合いを彼らがしていたのには驚きました。彼らはその後、市の運動公園の一角を借りて、仮設闘牛場を作って、翌年に角突きを復活させたんです。
実は、牛に勢をかける「勢子」として出てみないかという話は、以前からなされていたのですが、ずっと断っていました。私は研究者であり、なかに入ってしまったら、写真もメモもとれない。そして何よりも、学者はある種客体視することが大事じゃないですか。でもそのときは、闘牛を復活させようと彼らが苦労しているところに参画したくなっていました。それで、まあ勢いもあって、勢子として初めて闘牛に「参加」しました。そしたらやっぱり写真は撮れないし、そういうところで写真を撮ることに、以前にも増して違和感を覚えるようになってしまいました。でもそのときに、フィールドノートはいらないな、と思いました。彼らのことを学ぶとは、彼らの知識や考え方を学ぶことですが、よく考えてみると彼ら自身は、メモをとってそういうことを学んだのではなく、体験や長い付き合いのなかで体得したものだと、ふと気づいたんです。ノートに書かなくても、覚えようとしなくても、自然と分かってしまうようになる。そういうフィールドワークの方法に、この角突きの研究は転換していきました。
学者は、何かこの人たちのためになりたいと思うわけですが、最初から「人のため」に何かできると考える実践的な学問にも、私は若干違和感をもっていました。勢子になった、では他に何ができるか、と考えたときに、共に感じること、共に愉しむことくらいしか、民俗学者の私にはできないと思いました。自分の牛を飼ったのも、その一つといえますが。当時この村には、地震後の復興のために、行政が参与して、多くのいろいろな実践的学問の学者がやってきていました。学者は、復興のための様々な手法を知っていて、それを持ち込んでくるのですが、そういった上からの復興を目の当たりにしたときに、自分が採るべき民俗学的実践は、定型化せず、あるいは規範化せず、マニュアル化せず、汎用化せず、手段化せず、手法を道具化せず、さらに、その「実践」自体をアプリオリに目的化しない営為にしなければならない、と気がつきました。これがもしかしたら、民俗学のもっているオリジナリティ、民俗学にしかできないことではないかと思っています。
―― このスタンスは、先生が提唱されている「公共民俗学」とも繋がるものなのでしょうか?
そうですね。柳田の民俗学の出発点には、「なぜに農民は貧なりや」という問題意識がありました。要するに、我々は目の前で起きていることに対応しなければならないのに、そのための学問がなかったということです。農民の心を知り、農民の立場に立ち、そして、忘れられた人びとの文化を汲み取ろうとしたのです。しかし、残念なことに、こういう初志は、結局、民俗学では実現されませんでした。それを実現させる学問の方向性が、いま構想している「公共民俗学」という考え方です。一人の人間、忘れられる人びとに立ち返ろうという姿勢で、民俗学を再構築し、そういう人も含めた、民俗学の知のあり方を作っていけるのではないかと考えています。学問とは知を独占する動きであり、学者は一般の人に分かりにくい言葉で話してしまう。そういう営みのなかの学究ももちろん必要だけれど、さらに、「普通の人びと」も含めた上での知のあり方を模索しなければならないと。そこで、もともと「野の学問」を標榜していた民俗学に可能性があるのではないかと思い、私は民俗学に戻ってきたんです。実際は、学際的な研究も続けながら、自分を民俗学者としてアイデンティファイし、これまでの学問と違ったアプローチを考えてみようというのが私の立場です。
インタビュー後記
菅先生は、様々な研究をされていながら、その一つ一つに対して強い思い入れがあるのだなぁと感じました。ご自身が飼われている錦鯉や牛のことを、「自慢話なんだけど・・」と嬉しそうに話す先生はとても素敵でした。興味深いお話ばかりで、すべてを記事に載せられなかったのが残念でなりません。(一枚目の写真、中国の「根芸」についてのお話は割愛させていただきました。)私自身、フィールドワーカーの卵としても、多くのことを学ばせていただきました。ありがとうございました。(虫賀)