インタビュー 27

このページでは、当研究所教員へのインタビューを通じて、当研究所における研究への取り組みをご紹介しています。
第27回となる今回は、東アジア第一研究部門所属の高見澤 磨 教授へのインタビューをお届けします。

高見澤 磨 (TAKAMIZAWA Osamu, Professor /東アジア第一研究部門 教授)

―― 現在取り組まれていることを教えて下さい。

 一つ大きな仕事は、東文研の所内で見つかった、何百箱もの未整理資料の整理です。このうちの大部分は、耐震補強工事前に404号室にあったもので、濱下武志先生が集められたものがかなりを占め、また、佐伯有一先生、斯波義信先生、久保亨先生、上田信先生に関係するものもあります。資料原物のほかに、マイクロとそれを紙焼きしたものの組合せが大量にあります。昨年夏に五箱分、中国の山西省の商人の帳簿を整理したのですが、五箱やっても減った感じが全然しません(笑)。あと、有名な民法学者だった我妻栄先生が遺された原稿や資料もあります。これらを整理して図書館に入れておけば、みんなが使えるようになりますからね。もう一つは、今までやってきた中国の紛争論と法源論と近代法史を併せた形で、私なりの中国法の大雑把な捉え方を提示する本を一冊そろそろ書かなければとも考えています。

高見澤 磨

―― これまではどのような研究をされてきましたか?

 一つは中国の紛争についてです。私が対象にしてきた紛争とは、嫁姑や夫婦、隣近所の仲が悪いとか、人間関係におけるトラブルが中心です。中国にはどのような紛争があって、それらをどう解決して、また解決しないとどうなってしまうのかについて、修士論文、博士論文そしてそれ以後も続けて研究をしています。もともと、中国の調停制度を研究したいと思い大学院に入りまして、修士論文では特に人民調解制度(邦訳は人民調停制度)という、町内会や村の寄合や職場の人たちが作る委員会によって担われている紛争解決制度を題材にしました。博士課程に上がってからは、民事裁判も含めた紛争解決の勉強を始めていき、中国の場合は、「理を説いて、紛争解決するという役回りの第三者」と、「理を説かれて、私はそれに心から服しますという役割を演じる紛争の当事者」が劇を演じるような形で、紛争が起こっては解決されていくという話で博士論文をまとめました。日本であれば、できれば自分一人の心のうちで片付けるか、あるいは相手方との話し合いで解決して、第三者を引っ張ってくるのは嫌だと思うのでしょうが、興味深いのは、中国の場合は、第三者を連れてきて、その人に何か言ってもらうのが大事だと考えられているのではないかということです。これは、「和を尊ぶという儒家思想があるから」とか、「人民内部の矛盾は説得で解決するという社会主義による」という二つでよく説明されるのですが、私はそれでは不十分だと思います。そこで、基本的に中国社会は紛争が非常に起こりやすくかつ激化しやすい社会で、紛争が起きたらとにかく誰かが割って入って、両方を納得させることが必要なのではないかという仮説を立てて説明しました。紛争解決に失敗すると死者が出るぐらい、激化してしまいますから。中国では、人を自殺に追い込むこと自体が悪いこととされているので、実は自殺は最後の復讐手段になります。紛争が起きて、「死んでやる」と騒ぐ人が出たときに、「まあそう言わないで」と第三者が入ってくれれば死なずにすむし、騒いだ甲斐もあるのですが、そこで誰も現れないと、言った以上死ななければならなくなる、なんてこともあります。ただ、紛争が起きやすく、しかし第三者の介入も容易であった理由は、中国の当時の住宅事情にあったと思うので、現在ではまた違った状況になっていると思います。例えば昔の下町であれば、何軒かで共同の台所を使って、ガス台や水道の数も限られていて、紛争が起きやすかった。でも、ノックをして戸を開けるという習慣がなくて隣人がいきなり入ってくるような時代だったから、第三者による紛争解決が自然と行われていた。今では、中流階級以上の人は、壁の分厚いマンションに住んで、もちろん台所が共同なんてこともないし、状況は大きく変化してきています。

高見澤 磨

 これまで研究してきたことの二つ目は、中国の法源についてです。「法の存在形態」と法学では言いますが、裁判官が法に基づいて裁判をしなければならないというときの「法」とは何だろうということです。日本であれば、トップに憲法があって、国会の法律、内閣の政令、自治体の条例、慣習といった法源がありますが、中国ではそれが何であるのかを考えました。特に中華人民共和国の場合、50年代から80年代まで、法源が何なのかよく分からない時代があります。中国共産党の指示あるいは党中央の指示であればまだいいのですが、地域ごとの委員会の有力者の発言が極めて強い影響力を持ったという時代があるので・・。そうすると、そもそも法源とは何なのかという疑問が出てくるので、その整理をしてきました。これは博士課程の終わり頃から、今でもやっています。

 あとは、清末から中華民国までの法制史も見ています。清代までの法制史はそれなりに研究されているし、中華人民共和国の法律を研究する人は世界中にたくさんいます。しかしその間の時代はあまり研究されてこなかったので、その穴埋めをしようと思っています。

―― 中国法を研究することのおもしろさとは?

 法学そのもののおもしろさに気づき始めたのは、大学四年生以降でした。二、三年生の時は、予習をして真面目に授業も聞いていたのに、授業がなかなか分かりませんでした。でもイェーリングの『権利のための闘争』という本を読んで、「一寸の土地、一銭の金でも、争うことは正義に繋がる。そうすることで、不正義を正すことができるから」という記述を見た時に、ああそうかと分かったのは、「複雑な人間関係を権利と義務という記号に置き換えて紛争を解決しやすくするのが法なのだ」ということでした。目から鱗が落ちたというか、その時には、何かが分かった気がしたのです。法のおもしろさとは、一つは、複雑な人間関係を敢えて権利と義務、罪と罰のように、抽象化するという強引さにあるのかなと思います。それから、本当の真実が何であるかではなくて、裁判官のもとで一定の手続きで主張し立証されたことだけが事実になるというフィクションがおもしろいのかもしれないです。

 そしてまた中国の場合、人間を権利義務関係で捉えることに関してはかなり遅れます。中華民国の法律はヨーロッパ式の法律だから権利と義務の考え方は当然あるのですが、中華人民共和国になると、一つは社会主義法の影響で、もう一つは政治運動の影響で、そういうのが育ちにくくて、90年代以降やっと権利義務関係の法律ができてきました。しかしそれとは逆に、罪と罰という観点は、とても細かく作られています。例えば清の時代だと、死刑は絞・斬・凌遅処死、つまり首を絞めて殺すのと、切って殺すのと、少しずつスライスするのがあって・・死刑でも細かく分けたいようなのです。現在の中国だと、無期懲役と死刑の間に死刑の執行猶予という刑があります。これは、二年間刑務所の中で悪いことしなければ無期懲役に減刑されるというものです。中国人の考え方からすると、死刑と無期懲役の間に何か欲しいというわけなのです。あと他には、日本ではいくら盗めば窃盗罪になるかは法律で明確に決められてないですが、中国の場合、いくら盗んだら窃盗罪になるかが法律で明示され、それより低額であれば刑罰でなく行政罰になります。こういった細かさは非常におもしろいと思います。

高見澤 磨

 中国の律令制度や今の中国の刑法の考え方とは、功罪賞罰のものさしといえるものだと思います。いいことをしたらごほうび、悪いことをしたら罰、別の言い方をすると、どれくらい良いことかはごほうびの量ではかってあげて、どれくらい悪いかは罰の量ではかれるということです。これは中央集権国家ならではの、基準は私にあると国家が言えるというのが前提ではありますが、ここまで細かい方が、裁判官も裁かれる人も納得するようで・・それがおもしろいです。日本では、幕藩体制の時はけっこう細かいところまで決まっていたのですが、今ではもうありません。中国はまだそれが残っていて、人々はそれを期待しています。こういったことは昔であれば、日本と中国は違いますというだけで済んでいたのですが、一般市民も裁判員をやらされるようになった日本の今の状況では、そうもいかなくなりました。日本の制度では、裁判員が量刑までやるように定められていますよね。一応、最高裁判所は量刑データベースを提示していて、このような事件はこれまでこのような罰でしたという資料はあるのですが、絶対な基準ではないので、最後は裁く人の責任になってしまいます。だから私は無茶な制度だと思っていますが・・こういったことを、中国と比較したり、参考にしたりするとおもしろいかなと思います。


インタビュー後記

高見澤先生は、まるで原稿を読んでいるかのようにすらすらとお話をされる方で、法学初心者の私にも非常に分かりやすく、おもしろく研究のことを語ってくださいました。満州の土地売買契約書の現物を見せていただいたり、膨大にある未整理の貴重な資料の整理をするというお話は、とてもわくわくするものでした。ありがとうございました。(虫賀)

"高見澤 磨 プロフィール

略歴

1958. 6
生。
1982
東大法卒。
1982
法学修士 (東大)。
1994
博士 (法学・東大)。
1993
東大教養学部助手,
1994
同退職,同年立命館大学国際関係学部助教授,
1997
同退職,同年東文研助教授,
1998
海外研修 (北京外国語大学北京日本学研究センター主任教授補佐),
1999
帰国。
2003
東文研教授。