このページでは、当研究所教員へのインタビューを通じて、当研究所における研究への取り組みをご紹介しています。
第9回となる今回は、当研究所東アジア第二研究部門および東洋学研究情報センター所属の丘山新教授へのインタビューをお届けします。
―― 先生の現在の研究内容や興味・ご関心についてお聞かせ下さい。
仏教の研究をしているのですが、教理学的に研究するというよりも、仏教という豊かな歴史的叡智を手がかりにして、「人は根源的には他者と共に生きている」ということを宗教哲学的に少しでも明らかにしたいと思っています。今世界中には政治的なこととか経済的なこととか、環境問題とか医学の問題とか、様々な問題があって大変な時期だと言われていますが、その根本的な問題は僕たちが人と共に生きているんだという思いをどこかに忘れ、欲望と競争のなかに生きているということに起因していると思うのです。それを思想的に少しでも明らかにしたい、それをメッセージとして問いかけていこうというのが僕のテーマです。
―― なぜそのような問題意識を持たれるようになったのですか?
元をたどると、僕は小さい頃から戦争とか社会的な不平等とか、すごく嫌だったんです。京都大学の理学部で天文の勉強をしていたのですが、卒業する時に対象世界の研究と自分の人生を考えることを2つ同時にやっていくと自分の頭が分裂してしまうと思って、結局自分の人生を考えていくことを選んだのです。自分の人生の意味を考えるのが自分の人生なんだと聞いたら、人はおかしな話だと思うかも知れないけれど、僕はどうやって生きるかということを考えるのを自分の一生の使命にしたいと思いました。それで西洋の哲学を自己流に勉強していたのですが、結局よくわからない、自分の問題意識に対しては何も答えてくれないと感じました。しかし大学卒業後、就職せずに少しインドの思想の勉強をしていた時に、これならわかると思いました。ものを考えることが如何に生きるかということに直結していると感じ、東大の大学院に来て仏教を勉強し始めたんです。でも学問や思想をいくらやっても自分の生き方にはあまり役に立たない気がしたこともありました。しかし、お師匠様である玉城康四郎先生に、「学問と自分が生きること、あるいは信仰というのは車の両輪みたいなものだから、人類の過去の思想的な、文化的な遺産から学び取ることは、独り善がりにならないためにも君には絶対に必要です」と言われ、勉強を続けてきました。だから極端に言えば、今まで研究とか学問をやっていこうと思ったことはあまりなくて、相変わらず自分の生き方をテーマとして考えてきたのが自分の生き方で、多分これからもそうだと思います。
―― 仏教を学ぶことの魅力・面白さをどこに見出しているのですか?
仏教は大きく原始仏教と大乗仏教に分かれているのですが、原始仏教は紀元前5世紀頃にお釈迦様が出てきて、人生は苦で人間関係は苦しみをもたらすものだから、ひたすら一人で歩みなさい、そして解脱とか涅槃という理想の境地に達しなさいと説いています。一方で大乗仏教は紀元1世紀前後に出てくるのですが、彼らは利他行とか慈悲を主張しており、人間関係をすごく大事にして人の為に生きることを強調するんです。果たしてそれでは一体何が仏教だと言えるのか、仏教の目指すものは何なのだろうと疑問を持ったんです。そして色々な大乗仏教の経典を読んでいたら、「一切衆生」つまり「生とし生けるもの」という言葉がたくさん出ていて、僕は「これだ」と思いました。「一切衆生」はお釈迦様が説いたことのひっくり返しなんです。人とは関わるなという教えから、人間関係の中にこそ大事なことがあるんだという教えに180度転換しているんです。それに気づいた時、大乗仏教の新しい教理というのは「人と共に生きていくんだ」という根本的な願いを原理として、従来の仏教の教理用語をそのまま遣いながら、その含意を換骨奪胎して作っていったものであると気付きました。それから大乗仏教の新しい教理の一つひとつがよくわかるようになったんです。
―― 仏教の教えにはそのような変化があったのですね。それは仏教の枠に止まるものではなく、より大きな人類という枠においても意味のある変化であったのではないですか?
そうですね、大乗仏教も大体わかったなという気がしていたのですが、その時に、ヤスパースというヨーロッパの思想家が、釈迦、孔子、ソクラテス、プラトン、あるいは旧約聖書の預言者たちが同じ時代(紀元前8~4世紀)に現れていると指摘していることを知りました。さらに、僕は大乗仏教とキリスト教を見ながら、紀元1世紀の頃に人間はさらにもう1段階成熟したと考えました。どういうことかというと、ヤスパースが指摘した時代には自己の探求に焦点が置かれていたけれど、紀元1世紀の頃には大乗仏教やキリスト教が出てきて、他者の発見の時代になったと考えたのです。紀元1世紀頃には、人類は人と共に生きていくことの大切さを、自分が生きていくことと他者が生きていくこととは切り離せないのだと気付いたということです。ところが残念なことに、キリスト教は隣人愛を理論的に深めていません。仏教でも利他行とか慈悲という考え方が出てきて、共に生きていくんだという自覚は持ったのですが、それ以降理論的には考えてこなかった気がします。共に生きていくことが如何に大切か気付いていながら理論的に深めていない、あるいはそれを自覚したのに忘れている。そういうことが、現代のさまざまな問題の根底にある、ということでしょう。
―― 仏教の研究の背後には人類の歴史、現代の諸問題に対する大きな問題意識をお持ちなんですね。そんな丘山先生のこれからの展望をお聞かせ下さい。
世界の諸問題は、やはり自分と人とが共に生きているということを僕ら一人ひとりが再自覚していかないとどうしょうもない。主体は「単数の私」ではなく、本来は「複数の私たち」なんだって。そういうことを僕は宗教哲学的に考えたいし、実践的にも問い続けながら生きていきたいですね。そもそも、一人ひとり皆が幸せになるなんてことは永遠に実現しないだろうけれど、でもそれは欲望的存在といってもいい人間にいつまでも突きつけられ続ける根本問題だから、僕たちは永遠にその問いから逃れられない。あるいは、人間の中にそういう自分の欲望と共生への願いとの葛藤があり続けるでしょう。その葛藤を無くして欲望だらけになってしまったら、まさに地獄で、欲望が暴走する現代は既に地獄かもしれません。でも希望だけは失わない。それに、最近は経済学や脳科学の一部のすぐれた研究者たちとも、そういうことを巡って議論ができるようになってきているんです。僕はそういう人類にとっての永遠の課題に立ち向かって、悪あがきをしたい。現代のすべての課題の根っこに潜む欲望と、人間は共に生きているんだという忘れられた真実、これは哲学や宗教にとっても根本的な問題で、過去の人類の知的遺産を総動員してでも考えていかなければいけないことだろう、そういう問いかけとしてのメッセージを発信していくこと、それが自分に与えられた使命だと思っています。