インタビュー 24

このページでは、当研究所教員へのインタビューを通じて、当研究所における研究への取り組みをご紹介しています。
第24回となる今回は、東アジア第一研究部門所属の真鍋 祐子 教授へのインタビューをお届けします。

真鍋 祐子 (MANABE Yuko, Professor /東アジア第一研究部門 教授)

真鍋 祐子

―― 韓国を研究対象にしようと思われたきっかけを教えてください。

 大学に入る前は、文化人類学、特にラテンアメリカの研究をしたいと思っていました。実はこの思いは小学生の頃からあって、地球儀を眺めながら、この国にはどんな人が住んでいるのだろう、とか夢想するのが好きな子供だったんですよ。ラテンアメリカへの関心も小学生の頃、ラジオでフォルクローレっていうラテンアメリカの民族音楽を聴いてから始まったものでした。でも大学入試で失敗してしまって、奈良の教育大に入ることになりました。そこには文化人類学の教授もおらずスペイン語の授業もなく、研究者の夢は一旦諦めていました。

 大学一年生の時に、教科書問題が起こりました。日本の歴史教科書の「中国大陸に進出した」という表記は、「侵略」なのではないかという批判が、中国、韓国、東南アジアの国々から起こったのですが、教育大の社会科専攻だったので、そういう問題がストレートに来るんですね。こういった状況や、当時テレビでよく流されていた韓国や中国の歴史映画を見て、歴史的な事実は一つしかないはずなのに、それを日本から見た場合と朝鮮から見た場合では、記述が全く逆になることを実感して、相手の国に対する感情は、歴史認識によって作られるものであるし、その歴史認識は、ひょっとしたら国策としての教科書によって作られる部分があるのではないか、と考えました。それで、日本の世界史の教科書と、アジアの国々の教科書を比較してみようと思いました。韓国語を選んだのは、どうせなら人がやらない言語がいいと思ったからです。二年生に進学する頃に韓国語を独学で学び始めて、手に入れた韓国の歴史の教科書を、辞書を引きながら訳すということが、私の始まりです。でも教科書を訳していた時期自体は短くて、こういうことをやっていたら韓国に行ってみたいと思うじゃないですか。韓国に実際に行って、見て、感じたことがいろいろとあって、ラテンアメリカから韓国にシフトさせることで、当初やりたいと思っていた文化人類学的な研究ができないかなと思い始めました。

 大学二年で専攻を決める時に、文化人類学と一番近接しているから良かろうと、社会学を選びました。そこでの指導教授が、韓国のシャーマニズムをやってみたらどうかとアドバイスを下さったので、教科書問題は一度置いておいて、卒論はシャーマニズム研究で書こうと思いました。日本で本を出版された韓国人の先生に手紙を書いたりして繋がりを見つけながら、大学三年あたりから、自分で先方にアポをとって調査に行くということを始めました。

 その後、筑波の地域研究科で修士だったときも、シャーマニズム研究が主でした。でも、やりながら限界を感じていました。80年代の厳しい社会情勢の中で、朝鮮戦争の時に南に避難してきた人たちのコミュニティの、北朝鮮方式のシャーマン儀礼の観察をしていました。どういうわけか私は、危ない方へ危ない方へとアンテナが利くみたいで(笑)。途中で薄々、きれいごとの研究テーマを掲げれば、物事うまくいくのだろうなと気づいてもいたのですが、やっぱり自分の見えたもの、出会ったものを、煎じ詰めていきたいという思いが勝りました。でも、工作員がいたら通報せよというポスターが町中に貼ってあるような状況で、国家の琴線に触れるようなことをやるのは本当に難しかったです。

真鍋 祐子

―― そんな危険な状況下で、どうしてそこまでやろうと思われたのですか?

 それは、日本人だからこそやらなければいけないし、日本人でなければできないからです。韓国は、唯一冷戦構造が残っている地域ですよね。南北の分断の要因の一つは日本の植民地支配にあります。分断のねじれた状況、「ひび割れ」みたいなものが、一皮むくと剥き出しになってくる。そこに立ち続ける義務が韓国研究者にはあるのではないかと思っています。そしてこれは、韓国籍を持つ人にはできない。国家保安法の対象になってしまうからです。昔の日本の治安維持法みたいなものが、今でもあるんですよ。韓国籍でない人にはそういったしがらみがないので、ある程度までは踏み込めるし、それが、大げさかもしれませんが、私なりの戦争責任の取り方だと思っています。

 もう一つ、これは崔吉城先生の『韓国人の恨』(邦訳版は『恨の人類学』)を訳すきっかけにもなった出来事があります。崔先生のお弟子さんのある女子学生が、筑波に留学して三ヶ月で結核にかかって、半年間闘病して亡くなりました。その子の遺体は韓国に移送されず、しかも大阪で執り行われたお葬式には、彼女のお母さんと妹さんと従兄弟のお兄さんの三人しか来ませんでした。韓国では、未婚のまま死んだ人は、祟りが強い鬼神になると考えられ、儒教式のお葬式は出せない。ちゃんとした葬儀をしてもらえず、恨みをもって漂っている鬼神が、生きている人に災いをもたらすという俗信があります。

 そのお葬式の時、日本だと部分的にお骨を拾って終わりですが、この女子学生の場合、お母さんが泣きながら、素手で骨粉をかき集めておいおい泣いていました。骨粉は韓国に持ち帰って野山にまくとか川に流すとかするので、そういう人物がかつていたという痕跡は何一つ残らないのです。それを見たときに、同じ死でも、日本の場合は柳田国男の先祖の話とか、戦時中にいろいろと装置を作ったから、若くして死んでも仏になれる仕組みがあるけれども、韓国はそうではないし、そのお母さんの悲しみがどれほどのものかは、韓国的なコンテクストに立たないと分からないと感じました。私は、韓国をフィールドにした以上、そういうものを日本の、韓国のことを知らない人たちにフィードバックしなくてはならないと思いました。戦争責任とか従軍慰安婦とかを、なぜ韓国の人たちがそこまで言うかというと、これらは皆、未婚のまま死んだとか、客死したとか、体がばらばらになって死んだとか、儒教規範から外れた死に方ばかりなんです。だから、コリアン的なコンテクストからみると、ものすごく「恨」のたまる死に方なんです。そういうところから、彼らの言い分を受け止めることができなくてはいけないと思います。

真鍋 祐子

―― 先生は現在、いろいろなことを研究されていますが、その背後には大きなテーマがあって、すべて根本で繋がっているのですね。現在進行中の研究について教えていただけますか?

 大きく分けて三つあります。一つは、2000年の『光州事件で読む現代韓国』で区切りをつけたつもりだった、光州事件の問題です。今やっているのは、光州事件を当時、日本のメディアがどう報道し、それが韓国の民主化にどのように作用したかについてです。情報統制のため、韓国のメディアには光州事件は載らなくて、実は東京が情報発信基地になっていました。情報学環の林香里教授と二人の学生と四人で、「光州研究会」を始めまして、マスメディア・ジャーナリズムの観点から、もう一度光州事件を共同で見直そうとしています。

 二つ目は「ナショナリズムとツーリズム」というテーマです。韓国人にとって、先祖の地として意識されている、白頭山と上海大韓民国臨時政府旧址での韓国人観光客の調査を通して、韓国人独自の、ナショナル・アイデンティティを求めてのツーリズムのあり方が見えてきました。実は日本の金沢にも、日本人は知らないけれど修学旅行など韓国人観光客が訪れる場所があります。そこは、上海臨時政府の時代に、今の魯迅公園での日本人将校による式典に、爆弾投擲をした尹奉吉(ユン・ポンギル)という人が、逮捕され移送され、処刑された場所なんです。そこについて調べようと思っています。韓国人のナショナル・アイデンティティの眼差しを、誰もが知っている古代史ではなく、近現代史の中に位置づけられないかということを考えています。

 三つ目は、昨年情報学環の中にできた、「現代韓国研究センター」での取り組みです。ひょんなことから、東大先端研の寄附研究部門「総合癌研究国際戦略推進」(赤座英之特任教授)傘下で「アジアがんフォーラム」を主宰されている河原ノリエさんという特任研究員の方に出会いました。アジアという地域は、日本にとっては、避けて通れない歴史的「負債」のあるところだけれども、それを何とか「遺産」に変えたいという思いが彼女の中にあります。日本の戦争責任の取り方には、例えばあちこちに記念碑を建てて贖罪の意を表すことがあると思うのですが、現地の人が本当は日本に何を望んでいるのかを考えなければならない。彼女が旅をする中で出会った、韓国・中国の貧しい地方の人たちは、医療保険制度もままならず、病院にもかかれず、ただ苦しんで死を迎えるだけだった。戦争責任を言うのならば、こういう状況をなんとかしてくれないか、何か未来につながることをしてほしいと、日本の植民地支配の経験者であるおじいさんに満州で言われたことが、彼女の出発点だったようです。日本、中国、韓国のがん治療で使われている、欧米産の抗がん剤ではなく、食生活や遺伝子が近いアジア同士で、患者さんの人体の個人情報を共有しながら、アジア人によるアジア人のための、がん予防、抗がん剤開発のためのデータベースを構築したいという夢を彼女は持っています。彼女とのコラボで、現代韓国研究センターという枠を使ってこの問題に取り組んでいます。私の役割としては、土着的な韓国人の疾病観、死生観、個人情報に関わる法制度の問題、観念等をまとめて提供することです。


インタビュー後記

インタビューの最初には、「話下手で・・」とおっしゃっていて、優しい雰囲気をお持ちの物静かな先生なのかなと思いましたが、研究のお話を伺い、真逆であることが分かりました。物怖じせず異なる世界に飛び込んで、自分の目で見て触れて体験して、というバイタリティ溢れる先生の研究姿勢には、驚かされると共に憧れを抱きました。本文には載せられませんでしたが、「五感を使って見ていかないと、全体像を捉えられない。○○学という括りではなく、あくまで対象に寄り添う立場でいたい」という言葉が非常に心に残りました。ありがとうございました。(虫賀)

真鍋 祐子 プロフィール

略歴

1963. 10
1986
奈良教育大卒
1989
筑波大大学院修士課程地域研究研究科修了
1996
筑波大大学院大学院博士課程社会科学研究科修了、博士(社会学)
1987
慶熙大学校大学院碩士課程国文科研究生(1988まで)
1991
啓明大学校外国学大学日本学科客員専任講師(1993まで)
1996
日本学術振興会特別研究員(1998まで)
1998
秋田大教育文化学部助教授
2002
国士舘大21世紀アジア学部助教授
2006
東文研助教授
2007
同准教授
2010
同教授