―― 先生がいま取り組んでおられるテーマについて教えていただけますか。
いくつかあるのですが、いちばん分かりやすいのは、「新しい世界史を書く」というテーマです。高校で世界史の授業がありますよね。あれが日本の公定世界史です。高校で世界史を学んでいない人でも、世界の歴史について公定世界史に近いある種のイメージを持っていると思います。そのイメージは日本だけではなくて、世界的にかなり共通する部分があるのですが、それがもう現代という時代に合っていない、もう一度やり直しをしないといけないのではないかと思っているのです。
―― それはご専門であるイスラムの歴史だけではなく、世界史全体を見直そうということでしょうか。
そう。ある時期まで自分の専門はイスラム世界の歴史ですと言っていたのですが、それはやめたのです。なぜかを説明しましょう。初対面の人に「世界史が専門です」、と言うと、必ず「世界史のどのあたりですか」と聞かれるのです。そのときに前提になっているのは、世界はいくつかの部分にわかれていて、それぞれが別々の歴史を持っているということです。ところが、そのような歴史の理解方法は、日中韓の歴史認識論争のように、往々にして喧嘩や不和の種になります。紛争を誘発するような歴史は本当に必要なのだろうか、最近こんな風に考えるようになりました。
かつては必要だったのだと思います。歴史学という学問は19世紀に成立するのですが、この時代はナショナリズムの興隆期です。国民国家を作るためには共通の歴史を持つ必要があったのです。共通の歴史には、人々の結束力を高める、仲間意識を強くするという効用があるからです。ただ、今は逆に、日本と中国は違う、あるいはイスラムとヨーロッパは違うというように、歴史が世界観を固定する方向に作用しています。だからこそ時代にあった歴史を書かなければならないと思うのです。
それは簡単に言うと、「世界」史です。今までは、フランスはドイツと違う、日本は中国と違う、というように違うところを見て自分たちの独自性を主張する歴史を書いてきたわけです。その過程で、「日本」や「フランス」の共通点が強調されました。現在は「世界」の共通点を探して、世界はひとつだと実感できるような歴史を書くときなのです。
―― それは、歴史学から政治性をとりのぞいていくということですか。
排除はできないと思います。むしろ、これはきわめて政治的な運動です。現実に国が存在していますし、国が個々に歴史を持つのはある意味で当然です。個人が歴史を持つのと同じことです。しかし、それだけでは不十分で、今の時代には、世界中の人々が、「これが私たちの歴史だ」と言える「世界史」をあわせ持たないといけないのではないか。私たち歴史学者は、従来の枠組みである「国民国家」建設に協力したわけだから、今度は新しい世界史の枠組みを作って世界の人々を先導するべきではないかと思います。
―― その具体的な方法についてはどうお考えですか。
今のところ、ふたつのやり方があると思っています。ひとつは環境という視点を用い、環境の中で人間がどう生きてきたか、人間は環境とどういう関係を結びながら生きてきたかを歴史として書く方法です。そこでは、ドイツ人やフランス人であることはほとんど問題になりません。人間とその周囲の環境とを主語にして歴史を書くのです。ただしそのためには、これまでの歴史学はあまり役に立ちません。過去の気温や植物相などを知ることが重要ですから、理系の様々な研究成果を活用する必要があります。歴史学者にとっては、ほとんどゼロからの出発です。
もうひとつは、いままでの歴史学者による研究成果をできる限り活用して、歴史を解釈しなおして世界史を構想するという方法です。たとえば、日本の歴史は一本の筒のように捉えられ、そのなかに出来事の連鎖が配置されています。これを少し広げて、たとえば中国とか朝鮮半島まで入れてもう一本別の筒を作ってみたら、これまで日本史という筒の中で解釈されていた史実は、異なって説明・理解できるのではないでしょうか。この作業を最終的には世界を一本の筒だと想定して行えばよいと考えています。
―― 先生はもともとイランの歴史を研究されていたわけですが、そこから今のような世界を前提とした問題意識にいたるきっかけとなったのは、どういう出来事だったのでしょうか。
ひとつは、東文研の環境です。私はもともと歴史学、その中のイスラムやイランの歴史研究を専門としていました。しかし、東文研にはいろいろな分野の研究者がいますから、私の研究を面白いと思う人ばかりではありません。歴史学の分野だと評価されることでも、そこから一歩出ると、その方法や意味が常に問われます。とりあえずは、東文研で私の研究の意義を分かってもらえる努力をしよう、というところが最初です。さらに言うと、東京大学というヘテロな環境も重要でした。理系の先生と話をして、歴史学の意味を認めてもらうのは相当難しい。なぜ自分はこのような研究をしているのだろうという点を掘り下げていった結果、歴史学とは何なのか、というところに行きあたったのです。
もうひとつの転機は、9.11です。あの事件のあとイスラムとイスラム教徒全体が袋叩きにあいました。それがなぜかと考えたとき、そもそも「イスラム世界」という概念に問題があるのではないかと気付いたのです。調べてみて分かったのは、それが19世紀の「近代ヨーロッパ」でつくられたものだということでした。ヨーロッパとイスラムを対立的に捉える世界観が力を持ち、そこから派生する学問やものの見方が、現在の私たちの世界認識の基本となっている。イスラム世界を「あっちのもの、自分たちとは異なるもの」と捉えるように、自と他を峻別する考えかたが問題の原点だ、と考えるようになりました。それがこの世界史の構想の出発点です。
―― 近代がつくりあげた世界観そのものと、それに基づく歴史を見直すという壮大なプロジェクト、お話をうかがっただけでもわくわくしてきました。
普通、慎重な学者は、恥ずかしげもなくこんなことは言いません。面白い話かもしれませんが、実現できるかどうか分からないわけだし…。誰だって批判されるのは嫌ですからね。傷つくし、気分もよくない。若いときは先生や先輩の後ろに隠れるとか、同僚とスクラム組むとかして、弾に当たらないようにしていました。でも、いったん覚悟を決めて最前線に出ると、意外と弾は当たらないし、当たっても痛くないのです。自分としては意味があることをようやく見つけて、それに真剣に取り組んでいるわけだから、撃ちたい人は撃てという感じでしょうか。100発当たったら痛いって言って辞めちゃうかもしれないですけど(笑)。とりあえずは、5年後に新しい世界史を書くと宣言してあるので楽しみにしていてください。