このページでは、当研究所教員へのインタビューを通じて、当研究所における研究への取り組みをご紹介しています。
第39回となる今回は、汎アジア研究部門所属の松田 康博 教授へのインタビューをお届けします。
―― 松田先生は最初、大学で中国語を専攻されたんですね。中国を研究対象に選ばれたのはなぜですか?
僕が高校生だった1980年代は日中友好の時代で、中国のイメージがとても良かったんですね。「21世紀には中国の時代が来る!」と言っている人がいたのです。そんな話をある程度真に受けて、他人と違うことをやろうと麗澤大学で中国語を専攻したんですね。でも当時中国語を勉強するなんて余程の物好きだったんですよ。北海道に帰って中学校の同級生に会った時に、中国語を勉強していると言ったら、「この先どうすんの、お前!?」って言われて(笑)。
―― 先生は中台関係がご専門ですが、最初から国際関係に興味を持ってらっしゃったんですか?
はい、国際関係と社会・経済的な発展にはもともと関心がありました。僕は中学、高校時代に、小室直樹に心酔していまして、彼は社会学から経済学、政治学、国際政治学、歴史学と何でもやる人なんです。彼の本を読んで様々な理論を用いて人間社会を横断的に分析するということにすごく関心を持ちました。
大学に入ってからは、中国語と英語の勉強にどっぷり浸かりました。最初僕は外交官になろうと思っていました。法律や経済の勉強会を作って先生のところに押し掛けたりしていました。みんなから変わり者だと言われていましたね。僕らの時代はちょうどバブル経済だったから、真剣に勉強したり大学院に進学したりする人は珍しかったんですよ(笑)。その後、東京外国語大学の大学院に進学して中嶋嶺雄先生のもとで現代中国の勉強をしました。ミーハーな話なんだけど、あの当時テレビに出て中国問題を解説していたのは中嶋先生なんですよ。すごく分かりやすくていいなと思って。本もいっぱい出しているし。
―― 松田先生も著書もたくさん出版されて、テレビで解説もされていらっしゃるんですよね。まさに中嶋嶺雄先生を継承されていらっしゃる感じですが・・・
いや、それが入学してみたら全然授業について行けなかったんです(笑)。僕は語学マニアだったので、社会科学の基礎が出来ていなかったんですね。でも先輩の忠告に従って無理矢理2年で修士論文を書きました。その後、慶應義塾大学の大学院に入ったのですが、4年間くらい全く論文が書けなかったんですね。あの頃はすごく苦しかったです。在学中に就職をしたので仕事が忙しいし、自分の博士論文は進まないし、とにかく論文の書き方が分からない。博士論文の完成までに13年かかったんです。僕はすごいスロースターターなんですよ。
―― でも先生の研究業績を見ると、全くスロースターターという感じの量ではないのですが・・(笑)。
量が多くなったのはシンクタンクに就職したからなんです。シンクタンクにいると自分の専門以外にもたくさん論文を書かないといけないんですね。
それで僕の専門は3つに分かれてしまったのですが、1つ目が博論の領域で、「現代台湾政治史」です。中国大陸で失敗し内戦で敗れて台湾に逃げ込んだ中国国民党は、台湾で非常に強力な一党独裁体制を成立させました。そして世界史的にも非常に珍しい高度経済成長を成し遂げ、日本や韓国のように中産階級中心のモデルとなる経済を作り、その後ほぼ無血の民主化を経て、非常に安定した民主体制を築きました。なぜこのようなことができたのかと。
僕は大学1年生の時に中国を旅行し、2年の時に台湾に留学しました。僕が台湾にいた頃は、国民党と共産党は二卵性双生児だと言われたりしていたんですね。でも実感としては、あまりにも中国と台湾の経済発展や社会の在り方が違うので、何故だろうと思ったんです。しかも同じ一党独裁体制でありながら、一方は勝って大陸に残り、もう一方は負けて台湾に渡りましたよね。でも負けた方が進んでいるんです。これを誰も説明してくれなかったんですよ。何故かと言うと、中国研究者は中国研究しかやらない、台湾研究者は台湾研究しかやらないからなんですね。地理的に線を引いて、みんなその中に引っ込んでいるんです。同じように1945年以前の日本植民地時代の台湾を研究する人は、その後の時代の研究をすることはまずありません。1945年以降の研究をする人は、それ以前のことがあまり分からないんです。例外は若林正丈先生だけです。とても細かく研究分野が分かれているんですよ。これっておかしいでしょ?だから僕の研究のスタイルは、まっとうな疑問に基づき「時間と空間の境界を越えよう、越境しよう」というものなんです。今まで誰もやってこなかったことだから、やっていてとても面白かったですね。
―― 職歴を見ると、慶應義塾大学の在学中に防衛庁防衛研究所に就職されていますよね。これは何かきっかけがあったのですか?
僕は24歳で結婚したんですよ。だから大学院生の中で、僕は生活に困っている人ナンバーワンだったんです。すると指導教授の山田辰雄先生が防衛研究所の公募を紹介してくれたので、何も考えず即答で「受けます!」と(笑)。外交官試験の勉強をしていたお陰で、なんとか試験に合格しました。
当時は冷戦が終わったばかりで、防衛研究所は閑古鳥が鳴くようなところだったんです。だから、ラッキーだ、自分の研究が出来ると思って(笑)。ところがその2年後、日本国在香港総領事館専門調査員として香港に行ったところ、台湾海峡危機が起こったんです。当時台湾は民主化の最終段階で、総統の直接選挙をやろうとした時に、中国が武力を使って台湾を脅したんですね。そこで日本も周辺有事に対応出来るような態勢を作る必要がでてきて、「周辺事態法」などの法律を数年の間に作ってしまったんです。僕を含めた防研の研究者も急に忙しくなってしまって(笑)。僕の2つ目の専門領域である「中台関係を主とした東アジアの国際政治」は、自分の専門は台湾なんだけど、中国研究者として採用されたので、じゃあ中台関係の研究をしようという軽い気持ちで始めたんですね。でも突然台湾海峡危機が起こったせいで、突然テレビの取材は来るわ、講演会の依頼は来るわで、防衛庁教官という肩書きもあるし、軍事のこと聞かれて「知りません」とは言えないでしょ(笑)。だから一生懸命勉強したんですよ。それで日本の政策のこともいろいろ分かってきて。
そして帰国してしばらくしたら防衛庁防衛政策局防衛政策課研究室というところに1年間放り込まれたんですよ。するといきなり4ヶ月で政策文書を書けと言われて。だから毎日終電で帰宅するはめになり、子供がまだ小さかったから家内には怒られるし(笑)。でもそのおかげで、日本の外交・安全保障政策と日中の安全保障関係も僕の3つ目の研究分野になりました。
その後、ハワイとワシントンDCに客員研究員として行ったんですけど、まだその時は博論が終わってなかったんです。しかも英語で研究報告したり執筆したりできるようになる必要がありました。みんなが楽しく遊んでるワイキキを横目に毎日14、5時間勉強しましたね。シベリアの方がまだましです。発狂するかと思いましたね(笑)。それでやっと英語で仕事ができるようになり、博士論文も書き終わったら、今度は内閣官房(安全保障・危機管理担当)に飛ばされて。
―― 先生の人生は本当に波瀾万丈ですね(笑)。
その苦しい中で書いたのが『NSC国家安全保障会議—主要国の危機管理・安全政策統合メカニズム―』という編著です。日本を含めた8ヵ国・地域の国家安全保障会議の比較研究で、日本も内閣レベルでしっかりと政策統合をすべきだという見方を打ち出しています。僕の博論ですけど、役所勤めをしたせいで遅れて『台湾における一党独裁体制の成立』という題名で2006年に出版しました。でもこんな生活ずっと続けていたら死んじゃうなと思っていました。研究を諦めるか、死ぬまで頑張るかのどちらしかないと。するとたまたま翌年賞をいただいたんですよ。人生にはいいこともあるなと思って(笑)。同時に思いがけず、こちらの東文研に来ませんかという話がありまして、即答で「行きます!」と答えました。それがちょうど4年前のことです。
だから僕の研究は自分で作ろうと思って作ったものではないんです。状況に置かれたから出来たもので、やっていることが本職になったんです。でもおかげで自分のフィールドが広がりましたし、国家機関の中で働いている人達がどういう発想で仕事をするのか、あるいは公文書というものがどのような状況下で作られるのかといったことを理解する上で、とても役に立ちました。歴史研究、現状分析、そして政策研究はそれぞれ相互補完的なものだと思っています。
1950年代末に台湾側が風船につけて中国大陸に飛ばした安全證。 これを持って台湾に亡命すれば身の安全を保証してくれる。 |
―― それは実際の現場で多くの経験を積んできた先生にしか出来ない研究ですね。台湾を研究する面白さとはどのようなことですか?
台湾は「例外」なんです。経済発展に成功し、独自の領域、通貨、軍隊を持ち、国家としての体裁をほぼ完備しているのに、世界のほとんどの国と外交関係がないんです。国連を初めとした多くの国際機関から排除されていて、国家として認められていないんです。この「例外」を研究することによって逆に「国家とは何か?」という普遍性を改めて問い直すことが出来るんです。
―― 「例外」を研究することにより、ダイナミックな視点で世界を見ることが出来るようになるんですね!最後に、今後の展望を教えていただけますか?
僕は中台関係論という学問領域を作りたいと思っています。現在の中台関係論は、個別には優れた論文はありますが、ジャンルとしてはジャーナリスティックな領域か、政策領域のどちらかになってしまっています。例えば日米関係、日中関係では、いろいろな研究がなされ、様々な手法が出来、それが積み重ねられることにより、他の領域にもそのやり方がスピンアウトしています。これをイノベーションというんですけど、他領域にも衝撃を与えるようなものがないと学問領域として未熟だと僕は思うんですよ。
例えばよく言われるのがトゥーレベルゲームというものです。例えば日米関係では、内政(国内)と対外政策(国外)のふたつのレベルで二国間交渉を分析する手法です。しかし中台では状況が異なり、対外と内政とお互いの関係というスリーレベルであると僕は思うんですよ。中国と台湾はお互いを国と国との関係、外国との関係だと認めていません。そして米中、米台それぞれの関係がとても重要になります。アメリカが台湾を守っていなければ、とっくの昔に台湾は中国に統一されていますから。ですから中台関係を考える上では、極めて重要な第三者との関係を入れ込まないと絶対に研究が出来ないんです。さらに台湾内部では中国との統一を望んでいない人が大多数です。一方、中国は台湾の独立を認めるなんてありえないと思っており、アメリカは現状維持を求めてバランスをとっています。それぞれのアクターがそれぞれのレベルでともに影響を及ぼし合っています。このようなスリーレベルの関係はまだ充分に理論化されていません。僕はその答えを出したいと思っています。そしてこの中台関係の研究が、他の国際関係研究に応用されて、それによって学問分野全体の視野が広がっていくような研究がしたいと思っています。
インタビュー後記
松田先生はとても明るくエネルギッシュな先生で、今まで経験なさった数々の苦労話を、ざっくばらんな語り口で冗談をまじえながら話して下さいました。防衛省で培われた多くの経験や知識を生かし、研究分野も多岐に及んでいらっしゃって、この研究は松田先生にしかできないものだと感じました。今までにない笑いの絶えないインタビューで本当に楽しい時間でした。どうもありがとうございました。(石原)