インタビュー 36

このページでは、当研究所教員へのインタビューを通じて、当研究所における研究への取り組みをご紹介しています。
第36回となる今回は、のシルビー・ボウ研究員へのインタビューをお届けします。

シルビー・ボウ (Beaud ep. Kobayashi Sylvie / パリ第10大学 博士研究員)

シルビー・ボウ

―― 現在の研究テーマを教えてください。

  今ちょうど博士論文を書いているところなので、その概要を話すことにしたいと思います。私はこれまで、「漢族」のアイデンティティとは何かということに興味をもってきました。漢族とは中国において数的に最も優勢な民族で、私たちが普通「中国人」というときには、漢族のことを話していることになるでしょう。この漢族のアイデンティティについて考えるために、私ははじめ、雲南省の漢族の女性の民族衣装を研究対象として選びました。それが文化人類学専攻の修士のときです。民族衣装を選んだきっかけは、澂江県(ちょうこうけん)の女性たちが、少数民族のような服を着ている写真を見たことです。雲南省には多くの少数民族がいて、彼らはそれぞれの特徴的な民族衣装によって認識可能であると、国家によって規定されています。対照的に、漢族はたいてい「近代的」とか「西洋化された」と形容されます。しかし、先の写真が載っていた本は、民俗的で刺繍の施された服を着た澂江県の女性たちを、漢族であると説明していたんですね。私はこれをとても奇妙なことだと思いました。そして私は、フランスで、また澂江県に至るまでの道すがら北京から昆明(雲南省の省都)まで中国でも、これらの写真を多くの人に見せたのですが、彼らは皆、これらの女性たちは漢族ではない、少数民族だろうと答えたのです。ついに私はその写真が撮られた場所に辿りつき、そこの女性たちと話しました。すると彼女たちは明確に、自分たちを漢族だと言ったんです。こういった経緯で、漢族のイメージとはどのようなものか、そしてもちろん、彼・彼女らが自身のことをどのように説明するのかについての研究を始めました。

―― つまりシルビーさんは、彼女たちの衣類の分析を通して、漢族とは何か、「漢族」として考えられているものは何かということを考えようとしてきたのですね。

  ええと、実は、これは私の修士論文のテーマでした。フィールドワークを進めていく中で、私はある発見をしました。これらの服は、若い世代には毎日着られるものではなくなっていて、祭礼の劇衣装として使われるものになっていたんです。新年の祭りのとき、私は関索劇(かんさくげき)と呼ばれるその地方の仮面劇を見ました。地元の人々と「エスニシティ(民族意識)」について話すとき、彼らは必ず関索劇について触れるのです。だから私は、彼らにとって「漢族であること」が何を意味するのかを解明するためには、この関索劇が手掛かりを与えてくれるのではないかと考え、博士論文では関索劇に焦点を当てることにしました。現在私は、彼らがどのように関索劇を行うのかということ、そしてさらに重要なのは、この仮面劇を通して彼らがどのように漢族としてのアイデンティティを表現するのかを調べています。

―― 漢族として、ですか?私は、このような劇というのは、それぞれの民族独自の慣習に基づいた、特殊で伝統的なものだと勝手に思っていました。

  うーん、そうともいえるし、そうでないともいえますね。このような仮面劇の慣習は、漢族にも少数民族にも見つけることができますし、これらは明確に、土着的な特徴を帯びています。この劇には20の登場人物が出てきますが、関索はそのうちの一人です。この劇は、『三国志演義』そのものではないのですが、例えば関羽のような、『三国志演義』に登場する者たちが多く出てきます。実はこの物語によって、彼らは地元の歴史と彼らのアイデンティティを表現しているんです。彼らは、『三国志演義』ではなく「関索を演じている(玩関索)」と言います。関索は一般的に有名な人物ではないんですが、雲南省や中国の南西部ではとても人気があって、神として崇拝されています。
シルビー・ボウ   私が今博士論文で論証しようとしている主張とは、関索の物語は、彼らの歴史を語り直すためのモデルとして使われてきたのではないかということです。三国時代(3世紀)、関索は南征に参加し、中国の辺境地帯を平定するために、雲南に軍隊と共にやってきたと考えられています。その後雲南は、ある時は中国の中央政府によって統治され、またある時には中国から切り離されるということが繰り返されました。14世紀末、明朝が建国されて間もない頃、雲南を統治することを意図した重要な出征があり、その際に関索崇拝を促進させようという政策が採られました。これは雲南の人々に、三国時代、つまり漢族の中国がその辺りを統治していた時代を思い出させる一つの方法でした。非常に端的に言えば、中央政府は、この地方における自身の権力を正当化するために神話を利用しようとしたんです。私は、それぞれの時代の権威による神話の語り直しという方法は、中国の歴史において何度も採用されてきたと考えています。そして関索劇は、地元の人々が彼ら自身をどのように語ってきたかという歴史もまた示してくれるのです。

―― では、関索の神話は、それぞれの時代における雲南の人々の解釈に応じて、変わり続けているといえるのでしょうか?

  私はこの実践そのものの歴史はよく分かりませんが、いくらかの変化はあったでしょうね。というのも、神話や物語というものはその時代の必要に応じて変化するものでしょうから。私がこの実践を観察していた数年間にも、変化はありましたし。しかし私は、この地方における統治の確立のモデルとして関索の物語を語り直しているというこのプロセス自体は、残り続けているものであると考えます。私の主張は、これはただの軍事的侵略だったのではなく、そこに住んでいる人々と共同で神話を語り歴史を作ることと共に展開されたのではないかということです。私の印象では、このプロセスはいかにも中国らしいなという感じで、関索劇は、人々が神話と歴史、共同で作成した儀礼を共有することの一つの形態を伝えてくれるのです。

―― すごい!「神話の共有」や「共同で作った儀礼」とはとてもおもしろい発想ですね!ここには、中央から周縁へという一方向的なものではなく、双方向的な流れが見られますね。

  そうです。中央政府がこの伝統を一から創り上げたわけではありません。それはそこにすでにあったもので、政府がしたのはただそれを促進させたことだけです。政府がそうしたのは、明朝が始まったばかりの時代において、関索劇というこの伝統が政府にとって役に立つもの、もっと言えば不可欠なものだったからです。新しい政府は、当時まだ雲南を支配していたかつての王朝の力を排除して、人々を新しい権力の中に取り込む必要がありました。関索の神話と崇拝は、中央政府がそこにおける権威を確立するのに役に立つと考えられ、それは地元の人々に、関索が蜀漢(三国の一)の名のもとに統治をしにやって来た時代のことを思い出させることによって行われたのです。そしてさらに、関索の物語は軍事的侵略の話であるにも関わらず、雲南の人々は、南征の指導者であった諸葛亮(孔明)のこの地方への到達をポジティブに捉えています。彼はここに多くの優れたものをもたらしてくれ、文明化してくれたと考えられています。
そして私はまた、周縁地域の統治を確立するために神話を利用するというこの方法は、中国の歴史を通して何度も採られてきたのではないかと考えます。関索劇はこの地方において、19世紀の異なる軍事的入植においても具体化されました。その時にやって来た者たちは、明朝による権威確立のモデルを利用したのです。つまりこれは、ある形はそれ以前の形に言及し、その「それ以前の形」自体もまたそれより以前のものに言及しているという連続体として考えられます。

シルビー・ボウ

―― 我々は、明朝や19世紀における関索劇の形をどのように知ることができるのでしょうか?

  いや、それについては分からないですね。私は、関索劇の起源における真の形態を伝えることはできません。私が知りたいのは「ディスコース」、すなわち人々が何を語るのか、 人々がどのように彼ら自身の過去を表現するのかということです。それは歴史的な事実ではなく、歴史のイメージです。私は歴史学者ではなく、人類学者ですからね。

―― 彼らは劇を演じることで、自身の歴史を構築し続けているのですね!

  その通りです。ここで、彼らが彼ら自身を漢族としてどのようにアイデンティファイしているのかという最初の問いに戻ることができます。彼らは、「自分たちは漢族である、なぜなら関索劇を演じているから」と言うんですね。関索劇というのは、関索を彼らの村の基礎を確立した蜀漢の軍司令官として表現するものであり、だからこそ彼らが漢族であることが示されるというのです。研究を続けていけばいくほど、関索劇が彼らの自身の歴史を語っているということが分かってきました。表面上それは、『三国志演義』や関索の物語を伝えているだけなのですが、もっと深く知ろうとすると、これが、自身の歴史を表現するための彼らの方法であることに気づくのです。


インタビュー後記

  今回シルビーさんには、博士論文がいよいよ書きあがろうかという中でインタビューを受けていただきました。「指導教授にもまだ伝えていない」という非常に貴重なアイデアを聞かせていただき、そのダイナミックさと斬新さに私もとても興奮しました。ありがとうございました!(虫賀)
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