インタビュー 28

このページでは、当研究所教員へのインタビューを通じて、当研究所における研究への取り組みをご紹介しています。
第28回となる今回は、南アジア研究部門所属の古井 龍介 准教授へのインタビューをお届けします。

古井 龍介 (FURUI Ryosuke, Associate Professor /南アジア研究部門 准教授)

―― 古井先生の研究テーマを教えて下さい。

 はい。テーマはふたつあって、ひとつは5世紀から13世紀にかけての南アジア、ベンガル地方の農村社会における社会の変化を、サンスクリットの碑文やプラーナなどの文献の読解を通して研究することです。特に、現在見られるようなカースト的な社会が出来ていく過程、そしてブラーフマナ(バラモン)層が農村社会において、自らの権威を形成していく過程を追っていくことがテーマです。もうひとつは、ベンガルで発見された碑文を読解、校訂して発表するとことです。

	古井 龍介

―― 碑文の読解ということですが、どのような資料を用いるのですか?

 お見せしましょうか?この写真は、バングラデシュで入手したものですが、パーラ朝のゴーパーラ2世の銅板文書です。シッダマートリカーという文字で書かれています。銅板の上部に印章があって、王の名前が書いてあります。

 内容を見ていきましょう。ここには、パーラ朝の王の頌徳文、そして王が寄進した際に出す命令が書いてあるんですね。その内容は、王に従属する将軍がある村にヴィハーラ(仏教僧院)を建立したので、その仏教僧院に村を寄進してくれと王に頼み、それを王が許可したというものです。さらに、寄進の条件や寄進村落からの収入の用途などがいろいろ書いてあります。例えば、ブッダなどの崇拝を行うこと、サンガ(僧院の僧侶たち)に食事や衣類等を与えること、壊れた僧院を修復することなどです。加えて、寄進を破るものに対する呪いが書いてあったりします。

―― 呪いも書いてあるのですか?面白いですね。

 そうなんです。(デジタル写真を見せつつ)こちらは銅板文書ではなく北ベンガルで発見された11世紀の石碑ですが、動物の絵が彫ってあるのが面白いですよね。ここには、商人たちがある土地にヤシとキンマの木を買い、木になった実を売って出来たお金の一定額を、ある神殿に寄進するという約束を決めたことが書かれています。そして、ここにも呪いが書いてあります。もしこれを破るものがいれば、その者の父親はロバになり、母親はメス豚になり、おじはラクダになるであろう、というものです。ですからここに、ロバと豚とラクダの絵が彫ってあるんです。

―― このような銅板文書を読むとどのようなことが分かるのですか?

 別のデジタル写真を見せつつ)例えば、こちらのパーラ朝のダルマパーラ王の銅板文書には、以下のようなことが書かれています。ダルマパーラ王に従属する支配者とその妻が、僧院などの仏教施設を建立し、それに対して王が土地寄進を行ったと。彼らが建立した施設には、ソーマプラ・マハーヴィハーラというベンガルの著名な大僧院内のガンダクティー(仏像が置かれる香室)とヴィハーリカー(小僧院)が含まれています。大僧院自体はダルマパーラ王が建立したのですが、その中にある施設の一部を、彼に従属する支配者が寄進しているんですよね。このような一見フォーマルな文書でも、じっくり読んでいくと、王と王に従属する支配者との間の非常に微妙な緊張関係が見えるんです。

 パーラ朝の初期だと、文書を発行しているのは王なんですが、王に従属し、ある特定地域を治めている支配者が、自分の治める地域に僧院を作ったから僧院に土地を寄進してほしいというような申請を王に対して出すケースが見られます。当然、宗教的な行いなので、王も許可を出します。でも実際は、それによって従属する支配者が王の権威を使い、自分の地域の支配を固めようとしたり、王の権威を蚕食し、王が支配する領域内で自分たちの力を強くしようとした傾向が見えるんですよ。このようなことは、ただ普通に文書を読んでいると分からないのですが、ちょっとひねくれて読んでみると見えてくるんです。

	古井 龍介

 また、ブラーフマナたちは9世紀以降、おそらく北インドの中心部などからベンガル各地に移住をし、寄進を受け、自分たちのセンターを作っていきます。彼らは、移住先に根付いていた自分たちの持つものとは違う文化を取り込みつつ、かつ自分たちの権威を確立していきました。その過程も、彼らが作ったプラーナなどから分かるんです。

 例えば、ベンガルでは女神信仰が盛んなのですが、ブラーフマナたちはその祭をプラーナに出てくる祭式として取り込み、かつその中に自分たちの役割を埋め込んでいきました。例えば、祭式において最初に女神を呼ぶ時には、必ずブラーフマナが歓迎の言葉を発さなければならないとか、ブラーフマナには必ず食事を供し、贈与をしなくてはならないという形で。

 また、そこで遭遇する社会的現実に関しても、自分たちの論理で説明をつけ、社会のモデルを作り、それを在地の人々に押し付けていったと言えます。ベンガルでは11世紀以降、ダルマニバンダという文献が盛んに作られました。それはダルマシャーストラの事項を、ある特定のテーマに基づいて集めたダイジェストのようなものです。それらやプラーナの編纂を通して、自分たちの持つ社会的枠組や価値観をうまく各地域の状況に適合させ、ベンガルの社会全体に押し付けていきました。

 例えば、ブラーフマナらの見方からすると社会は4ヴァルナ(ブラーフマナ・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラという4階級)に分かれているということになっていますが、彼らが遭遇する現実の社会は当然違いました。それを理解するために、4ヴァルナに入らない社会集団は、実はヴァルナが相互に混ざってできたものだというロジック(ヴァルナサンカラ)を紀元前6世紀頃に作ります。彼らはこのロジックをベンガルに大量に移住する時にも援用しました。

―― 実際に農村の人達は、そのようなブラーフマナたちの主張を受け入れてきたのですか?

 それがとても難しいところなんです。前近代インドでは識字人口が非常に限られるので、農村の人々がそれらに対してどのように対処していったのかが見えにくいんですよ。だからこそ、それをしっかりと掘り返していくことが僕の課題でもあると思っています。ただ時々、それがテクストの綻びから見えることがあるんです。

 例えば『ブリハッダルマプラーナ』という13世紀のプラーナでは、ベンガルにいる各社会層の誕生と、彼らのランクを定義するために神話を用いています。そこでは、ヴェーナという悪い王がいて、彼が4ヴァルナを全部混ぜてしまったから、その子孫として混血ヴァルナが生まれてしまったと語られます。そして、混血ヴァルナのそれぞれの生業や階層関係を、ヴェーナの身体から生まれた正しい王であるプリトゥがブラーフマナたちと相談して決めたと。しかしこの神話の記述を丁寧に見ていくと、ブラーフマナ以外のふたつの知識層が、特有の高い知識を持っており、彼らが高い地位であることを、ブラーフマナたちが認めざるを得なかったという事実が見えてくるんですよ。

古井 龍介

 そのひとつが、カーヤスタという文字を刻むのが仕事である人々です。神話の記述では、カーヤスタはブラーフマナに対して非常に素直に従ったので、ブラーフマナは政策についての知識を持つ彼らが行政などに従事するべきであると言っています。もうひとつは医者であるヴァイディヤという人々です。神話の記述では、ブラーフマナはアシュヴィン双神という医術の神様の助けを借りて、アーユルヴェーダ(医学の知識)を作り、ヴァイディヤに与えたというふうに言っています。実はそこには、自分たちのものではない知識を相手は持っている、という事実をブラーフマナたちが認めざるをえず、それでも何とか自分たちのおかげで彼らが知識を得たことにしたいという意図が読み取れるのです。このように、ブラーフマナたちが、在地のエリート層を何とか取り込んでいこうとする過程がこの神話の中には見られるのです。

 彼らは自分たちの価値観を押し付けるだけでは、絶対に自分たちの権威を確立することはできませんでした。そこで、その地域の文化や社会集団と折り合いをつけ、交渉をしてきたのです。前近代のインドの歴史には、この連続と拡大が見られるのです。

 例えば、森には狩猟採集をしている人々が住んでいました。それが農業が拡大するに従って、森にも定住農耕社会が切り込んでくるわけですよね。おそらく森に住んでいた狩猟採集民にも、彼ら自身の世界観があり、彼ら自身の神様がいて、彼ら自身の信仰体系があったと思うのですが、そこに新しく外部のものが入ってきた時に、彼らのロジックではそれを説明できないんです。それに対して、外部も含めた世界についてある意味整合的な説明を提供することが出来るのは、おそらく複雑な社会制度を経験した定住農耕社会の文化なんですよ。ですから双方の交渉は、不均衡な形にならざるを得ないんです。でも、このような言い方をしてしまうと、下手をすれば狩猟採集民たちが定住農耕社会に圧倒されるだけの話になってしまいます。しかし、実際はそうではなかったと僕は考えます。ですから、定住農耕社会とその文化を押し付けられる側の抵抗の跡を追っていくことも、僕のこれからの課題だと思っています。しかし、それへのアクセスは、あくまでもブラーフマナや定住農耕社会に属する人々による他者への見方や記述を通すしかないので、彼らが作ったテクストをいかに斜め読みし、そこから彼らにとっての他者を掘り出していくかが重要になります。

 テクストは特定のコンテクストの中で作られていますが、それにはテクストに書かれない外の世界も含まれます。そのことを意識できれば、今までと違う世界を読み込むこともできるんですよ。


インタビュー後記

古井先生は真面目で物静かな雰囲気の方でしたが、碑文の写真の説明をしている時の生き生きとした熱意のある表情がとても印象的でした。文献の作られた背景を読み込むことの重要さを改めて教えていただき、私自身とても勉強になりました。(石原)

古井 龍介 プロフィール

略歴

1975.5.
生。
1998.3.
東大・文・東洋史卒。
2000.3.
東大大学院・人文社会・アジア文化研究修士課程修了。
2000.4.
日本学術振興会特別研究員(DC1, 2001.12.まで)
2006.3.
東大大学院・人文社会・アジア文化研究博士課程退学。
2007.4.
日本学術振興会特別研究員(PD, 2008.3.まで)。
2007.12.
Ph.D. (Jawaharlal Nehru University)。
2008.4.
東京大学東洋文化研究所准教授。