インタビュー 34

このページでは、当研究所教員へのインタビューを通じて、当研究所における研究への取り組みをご紹介しています。
第34回となる今回は、復旦大学文史研究院副教授の朱溢先生へのインタビューをお届けします。

朱 溢 (National Institute for Advanced Humanistic Studies Fudan University, Associate Professor, Zhu Yi / 復旦大学 文史研究院副教授 朱溢)

朱 溢

―― まず朱先生の専門について教えていただけますか?

  私の専門は、主に7世紀から13世紀にかけての中国史です。高校の時に中国の歴史に興味を持ち、北京大学に入学して中国史を専攻しました。そこで修士号を取った後、博士号取得のためにシンガポール国立大学に進学しました。そして、“The Evolution of Propitious Rituals in Tang and Song China”(『中国の唐・宋代における吉礼の発展』)というタイトルで博士論文を執筆しました。

―― 「吉礼」とはどのようなものですか?

  古代中国には五種の国家儀礼がありました。つまり、吉礼(the propitious rituals)、凶礼(the omen rituals)、賓礼(the rituals of guests)、軍礼(the military rituals)、嘉礼(the felicity rituals)の五つです。吉礼は様々な儀礼により構成されていましたが、国家儀礼の中で最も重要なものでした。私が本日発表を行なった「太廟祭祀(the sacrifices of imperial ancestral temple)」は、吉礼の中で郊祀(the suburban sacrifices)の次に重要な儀礼とされています。

朱 溢

―― 今日の朱先生の発表は、唐代から宋代にかけての太廟祭祀は「公」的な性格よりも「私」的な性格を強めたということでしたが、その「公」的性格と「私」的性格の定義について、もう少し詳しく説明していただけますか?

  「公」的性格とは、太廟祭祀が皇位継承の合法性を象徴するものであったということです。皇位継承は皇帝の権力の由来のひとつであると考えられていました。一方「私」的性格とは、太廟祭祀がいわば皇帝や皇室による祖先崇拝という性質を持っていたということです。元来、太廟祭祀は「公」的性格の強いものでした。しかし唐代から宋代にかけて太廟祭祀がその「私」的性格を強めたため、その儀礼におけるいくつかの重要な側面が大きく変容したと考えられます。
  例えば、唐朝以前の太廟の廟室には、ひとりの皇帝に対し、ひとりの皇后の位牌が納められることが普通でした(一帝一后)。しかし唐・宋代においては、ひとつの廟室内に、ひとりの皇帝に対し複数の皇后が祀られるようになりました(一帝数后)。私はこの変化が太廟祭祀の「私」的性格が強まったことによる影響であると考えています。

朱 溢

―― では最後に、朱先生の研究における今後の展望を教えて下さい。

  博士論文の執筆後、私はその中の数章を改訂し、出版しました。私の博士論文タイトルは『中国の唐・宋代における吉礼の発展』でしたが、実際私は唐と北宋の時代の吉礼について研究していました。そこで来年、私は南宋、特に首都臨安(現在の杭州市)における特定の状況下において、吉礼がどのように発展したのかについて調査しようと考えています。そしてこの研究が完成した後は、中国の唐・宋代における吉礼についてのモノグラフを出版しようと考えています。