インドとイスラームの出会いは、初期イスラームの時代に遡り、その後も10世紀から12世紀にかけて、アフガニスタンを中心としたガズナ朝やゴール朝の勢力が北西からインドへと侵入する。しかしながら、インドのイスラーム化は12世紀末にデリーに王権を樹立してから後のことである。インド・イスラーム建築も12世紀以前のものとしてはバドレスワルのモスクが報告されているのみである。

1.年代別解説

2.地方別解説

3.用語解説

  ■モスク ■墓建築 ■石造建築技術(グリッド式と12柱式、迫り持ち式と持ち送り式)


1.年代別解説

■12世紀末〜13世紀初頭

 12世紀末から13世紀初頭にかけてのインド・イスラーム建築遺構は、
モスクやムスリムを葬った墓建築とはいえ、在来のヒンドゥー寺院やジャイナ寺院を転用したり、土着の石造建築技術を借りて始まった。著名な遺構にはデリーのクトゥブ・マスジドとアジメールのアライ・ディン・カ・ジョンプラー・モスクがある。これらでは、梁柱構法を使ったモスク建築を覆い隠すかのようにアーチ壁が付加された。しかしながらアーチ自体は真の迫り持ち式ではなく、水平材を重ねる持ち送り式である。イスラームのシンボルとしてアーチという形が取りこまれ、キブラの方向を指し示すミフラーブにもこの形が使われる。加えて、塔の形態もインドのイスラーム建築が素直に受け入れ、ミナレットとして根付いていく。

■13世紀中頃〜14世紀中頃

 13世紀中頃から14世紀中頃にかけて、デリーの建築は
バルバンの墓に見られるように次第に真のアーチの技術、すなわち迫り持ち式を会得した。モスク建築では、間口と奥行方向に均等にアーチを並べて小ドームをかける多柱式の礼拝室が作られるようになり、墓建築では迫り持ち式のドームを頂くようになった。この時代には最も西よりのムルターン地方で、より中東の建築に近い墓廟が残る。デリーの建築にも、ベガンプール・モスクジャマーット・ハーナ・モスクなど中東の建築によく似たイーワーンや大ドームも現れるので、イランや中央アジアから技術や工人が渡来し、それらの技術が積極的に導入されたと思われる。これらのいくつかの技術はデリーに根付くとともに、土着の様式と折衷し、14世紀後半には、モスクではグリッド式平面にアーチ構法を用いてた柱室を構築する方法、墓建築では正方形平面を厚い壁で構築してドームをかけたキャノピー墓と12柱式の梁柱構法に迫り持ちドームをかけた12柱式墓がインド全域へと流布することとなった。

■14世紀後半

 その後、デリーを中心としたイスラーム政権は各地へと支配を広げ、それとともにイスラーム建築も各地へと広まる。14世紀後半には東のジョウンプル、ベンガル、南のマルワー、デカン(グルバルガ)、西のグジャラートなどにデリーからの独立政権が樹立されると、各地で新たにイスラーム建築の構築が始まる。各地とも当初は、
ドーラターバードのジャーマ・マスジドにみるように100数十年前にデリーにイスラーム建築が初めて持ち込まれたときと同様に、ヒンドゥー建築の転用から始まるが、すぐにこの状態から脱却し、ジャーマ・マスジドなどの大モニュメントの構築を通してそれぞれの支配者が地域の特性を持った様式を構築するようになる。このような地方色豊かな進化は、土着の技法の差異よりもむしろ支配者が建築を支配の広告塔とみなし、独自の様式を推進したことに起因するのではないだろうか。

■14世紀末〜16世紀半ば

 14世紀末から16世紀半ばまで、
地方では新しいスタイルが成立した。地方の建築様式は、既往の建築文化の差異に加え、新た様式を模索した諸地方王朝の建築に対する考え方の違いを反映して、多様な姿を見せる。これに比べると、15世紀から16世紀中頃までのデリーの建築は、遺構数こそ増えるものの、大規模な建築や新しい様式への模索といった点では、その活力は次第に低下していったようである。これには、14世紀末のティムールの遠征、その後のアフガン族の侵入など政治的経済的に不安定をきたした社会状況が反映しているのであろう。


■16世紀半ば〜17世紀

 インドのイスラーム建築の転機は16世紀半ばに訪れる。ムガル朝が成立しインド各地へと勢力を伸ばし、ガンジス川中流域、ベンガル、マルワー、グジャラートを併合して大ムガル帝国を築いた点、デカンのバフマン朝がゴルコンダ、ビジャプール、ビーダル、アフマドナガルの政権に分裂した点が大きく影響する。ムガル朝下の
ファテープル・シクリアラハバードアグラの建築は、王家の故地、ティムール朝の様式を土台にしてはいるものの、細部においてはインドの地方様式の集大成である。デカンのゴルコンダビジャプールビーダルの建築は、ティムール朝から大きく影響を受けたバフマン朝の様式がさらにデカンの各地でヒンドゥー的な要素を加味しながら特異発展を遂げたものといえる。


2.地方別解説

■ベンガル

 ベンガルでは、1370年代の
アディナ・マスジドの建設において、トンネル・ヴォールトの架かる大イーワーンという今までのインドのイスラーム建築にはなかった形を導入した。時代と形からして、イランのイル・ハーン朝のタブリーズのアリ・シャー・モスクとの関係が想起される。その後、大イーワーンという点では追随例はないものの、アディナ・マスジド副礼拝室の形式や煉瓦を用いた装飾等は継承される。15世紀のパンドゥアや15世紀後半から16世紀前半のゴールでは、煉瓦造の厚い壁体をもつ建築で、小ドームを並べるモスクと大ドームを頂くモスクが特色となる。ムガル朝下においては、ベンガリー・ルーフのようにベンガルからムガル建築へと持ちこまれた細部があることに加え、ルコチョリ・ダルワザのようなベンガルに今までなかったようなムガル建築もたち、両者の折衷が進んだ。

■デカン

 デカンでは、1369年の
グルバルガのジャーマ・マスジドの建設において、当時のデリーのアーチ技術を大きく受け入れて構築されたことがその形態から推察されるが、デリーでは流行らない大ドームを頂く礼拝室が見られる点には注目せねばならない。バフマン朝が1428年にビーダルへと遷都すると、デカンの建築はティムール朝の建築から大きく影響を受けた。交差アーチ、タイルの使用、マフムード・ガーワーンのマドラサなどはその例である。16世紀半ばから、ベンガル、グジャラート、マルワーなどがムガル朝の権力下に編入され、建築様式が変容するのに比し、デカンでは、14世紀から17世紀後半までの様式に一貫性が見られる。


■グジャラート

 グジャラートでは、キャンベイやバルーチに残る14世紀の建築はヒンドゥーの転用材建築によっている。アーマド・シャー朝が成立し15世紀になってアーマダーバードに遷都した後にもこの方向性は変わらず、梁柱構法を用いたモスクや墓を建てつづける。グジャラート地方の建築はインド・イスラーム建築の中にあって、最もヒンドゥー色の濃い建築である。なかでも1423年建立のアーマダーバードのジャーマ・マスジドの存在は大きく、アーチ壁の中央大アーチの脇に配された2本のミナレット、アーチ壁の背後に構築された3階吹き抜けの12柱式ドームは、インドの土着様式に傾倒した特異な折衷様式を見せている。この様式から抜け出そうという例は少数で、16世紀前半まではこの折衷様式が支配的であった。しかしながら、ムガル朝の征服の前後には次第にアーチ構法への関心が高まり、シディ・サイイド・モスクシャー・アラムのモスクに見るような新様式が生まれた。

■マルワー地方

 マルワー地方は、グジャラートとデカンの中間に位置する。
ダールの建築はまだ転用材モスクから脱し得ない情況を呈しているが、15世紀前半のマンドゥーのジャーマ・マスジドは、デカンのビーダルの様式とも、グジャラートのアハマダーバードの様式とも異なる独自の姿を呈している。アーチや大ドームを多用する点はデカンの建築と類似するものの、デカンの建築が表面をスタッコで塗り固めるのに対し、マンドゥーの建築は石張り建築に徹し、柱も石柱を使用するためかデカンのピアに比するとよりスレンダーな印象を与える。マンドゥーには15世紀半ばから16世紀前半の多くの建築が遺存する。マンドゥーはムガル朝皇帝のお気に入りの避暑地となり、マンドゥー建築に見られる水と建築との一体化はムガル朝の庭園に大きな影響を及ぼした。

■ガンジス川中流域

 デリーとベンガルの中間、ガンジス川中流粋では、
ヴァラナーシーのアルハーイー・カングラ・マスジドの後、15世紀にはジョウンプルの特異なモスク群がある。これらは、礼拝室の中央に大きなイーワーン風のパイロンを設ける点、そしてその背後に大ドームを連結させる点に中東のイスラーム建築を見習おうという方向性が見られるものの、切石を多く使い廻廊等に梁柱構法を用いている点で、ベンガルやデカン、マルワーの建築と比べるとより土着様式を加味した様式といえる。それらの最後に位置するのが16世紀前半の3棟のササラムの墓廟である。これらについては、デリーの建築との関係を考えねばならない。


3.用語解説

モスク ■墓建築 ■石造建築技術(グリッド式と12柱式、迫り持ち式と持ち送り式)

 


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