MANDU V.ジャーマ・マスジド近傍

1.JAMA MASJID (1454)
2.TOMB OF MAHMUD KHAJI (1475頃)
   & ASHRAFI MAHAL (15世紀前半)
3.HOSHANG SHAH'S TOMB   (1432頃)
4.CHAPPEN MAHAL
5.DARYA KHAN'S TOMB

1.JAMA MASJID
  

拡大写真へ マーンドゥーに残るモスクばかりでなく南アジア各地の中世王国で造られたモスクのなかでも、その規模といい、石の素材の処理の方法といい、また西側礼拝室の西側ミフラーブの部分やその他この建造物全体のごくの一部をのぞいて複雑な文様彫刻をあまり施していないという点においても、簡素で威厳を感じさせるモニュメントであるという印象を受けた遺跡である。モスクの東側の入口上部に掲げられた刻文は今ではその左半分が欠落しているが、残存している右半分のペルシア語文章の内容から、このモスクが後述する「ホーシャングの意志によって」建てられ、858AH年(1454)に「スルターン・アラーウッディーン」すなわちマフムード・ハルジーによって完成されたことがわかるのである。(荒松雄)
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2.TOMB OF MAHMUD KHAJI & ASHRAFI MAHAL
 

拡大する  今では崩落した建造物の跡しか辿ることができない「気高い宮殿」を意味するこの建物は、ホーシャング・シャーの治世に本来はマドラサとして造営されたもので、かつてマーンドゥーにおける最も壮大な建造物の一つであったと推定される。この建造物全体は、アーチ形の部屋を連ね四隅に塔を頂く堂々たる基壇の上に造られており、南側の現存する階段を登った門を備えていた。さいわいにして、この門は現存している。(荒松雄)
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3.HOSHANG SHAH'S TOMB

拡大する 1405年に父を継いでスルターンに即位したアルプ・ハーンすなわちホーシャング・シャーは、その二七年に及ぶマールワ地方支配のなかで、建築好きの性格から壮大な建造物を残したが、そのなかにはジャーマ・マスジドやデリー・ダルワーザや前項のマドラサ(アシュラーフィー・マハル)とともに、彼自身の墓も含まれている。ホーシャング・シャーは1435年に死んだが、彼が生前に建てさせた自分の墓は、彼を継いだその子のマフムード・シャーによって完成された。(荒松雄)
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4.CHAPPEN MAHAL

 諸報告書によると、この建造物は1956年(サンバット・チャッパンSampat Chappan)に修復を施されたので、地方的にはこの特異な名称で呼ばれるようになったという。かなりひろく高い基壇の上に造られた堂々たる四角平面の建造物で、バトゥルメントを巡らせた屋根の上に、これまたかなり高い基部を持つドームを頂く建造物で、今日では「マハル(宮殿)」の名で呼ばれているにもかかわらず、実際には墓建築で相当の王族乃至は高官の墓所であったと思われる。前記の徹底した補修のせいか、二重のアーチ形の入口を開いている四周の壁面とともに屋根もドーム全体も堅固な造りであって、16世紀に造られたデカンの四角平面の墓建築の典型的建造物であるといえよう。この墓建築本体が立つ全体の基壇はかなり高いが、私が訪ねたときは本来あったと思われる庇は落ちたままであったが、各面のアーチ形の部屋の一部は近代の扉を付けて事務室に改善されていた。(荒松雄)

5.DARYA KHAN'S TOMB

 この墓は低い基壇の上に造られた四角平面の建造物であるが、二段の帯状の縁によって三層を装った外壁には赤色の石が用いられ、さらに青、緑、黄、白などの色彩のエナメル・タイルを用いた華麗な墓建築である。深く高いドームを頂き、その四隅には高い小型のドームを四基巡らせていて、デリーその他南アジア各地の中世インド−イスラム墓建築にはあまりみられない特異な形態と構造とを持っている。 ダリヤー・ハーンとは、マフムードII世(在位1510-26)の治世にマーンドゥーの宮廷にいた人物で、墓の内部には三基の墓石が残っている。この墓建築の周辺には、さらに数件の建造物の崩壊した跡が残っており、マフムードII世宮廷に関わる何らか特異な場所であったことが推定される。(荒松雄)

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