GOLCONDA


 ハイダラーバードの旧市街地の西、約5キロメートルに位置する。ビーダルのバフマン朝から独立したクトゥブ・シャー朝がヒンドゥー城砦を改築して首都とした。同朝下で、城砦に宮殿建築が付加され、それを取り囲む市壁が整備された。東西、南北ほぼ1.5キロほどの市壁内の南西よりに城砦が聳えている。市壁の周囲には8つの市門が設けられ、ハイダラーバードへと至る東門の外には、大きな貯水池が広がり、その北東側には1724年にニザム・ウル・ムルクが新城砦ナヤ・キラーを増築した。クトゥブ・シャー朝の王家の墓地は市壁の北西外側に広がり、数多くの墓建築が現存する。他に、市壁内外にもいくつかのクトゥブ・シャー朝期のモスク建築が残っている。(深見奈緒子)
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A 1.FORT (12世紀創建、14世紀後半再建)
 
2.IBRAHIM'S MOSQUE (1550−80) 

B. GRAVEYARD
 
3.TOMB OF QULI QUTB SHAH (1543)
 4.TOMB OF SUBHAN QULI QUTB SHAH (1550)
 5.BAOLI (16世紀後半-17世紀)
 6.TOMB OF JAMSHID QULI QUTB SHAH (1550)


A.FORT
1.FORT 丘陵城砦および城砦内のさまざまな建造物

拡大してみる ゴールコンダの城砦とそれを取り巻く城壁のある地域は本来は12世紀のワランガルに拠ったカーカティヤ勢力の領地で、丘の上に立つ現存の城砦の原型が造営されたのはその時である。ただこの時の城砦は現存するような強固な城とは異なって土を用いる「カッチャーkacchha」な造りで、簡素なものだったらしい。やがて、この丘を利用した城砦は14世紀後半にバフマン朝のムハンマド・シャーT世の手に入り、ゴールコンダ地方は一時「ムハンマドナガル」と呼ばれた。しかし、バフマン朝時代の首都はグルバルガーとビーダルにあったので、現存する石造の強固な城砦が造営されたのは、バフマン朝崩壊後にこの地方に拠ったクトゥブ・シャーヒー勢力の前半の時代すなわち16世紀の初頭から後半にかけてのことで、現在その遺跡を見ることができるいわゆる「パッカーpakka」な造りの城砦が造営されたのも、この時代以降のことである。(荒松雄)
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 ▲南より城砦を臨む  


2.IBRAHIM'S MOSQUE

拡大してみる ゴールコンダの城砦頂上にあるバーラダリーの南南東の方角、城砦の上部の一角に残る建造物で、クトゥブ・シャーヒー三代目のスルターンであるイブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャー(1550-80)によって造営されたのでこの名で知られている。三つの入口、奥行一間の小型なモスクで、屋根全体がバトゥルメントを備える欄干で囲まれ、宝珠形のドームと小部屋とを持つ南北両端の塔とともに、中世デカンの建造物特有の形式を持っている。中央のミフラーブとその左右両方のベイも特徴的である。(荒松雄)

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 ▲東から  


B. GRAVEYARD
3.TOMB OF QULI QUTB SHAH

拡大してみる ゴールコンダのクトゥブ・シャーヒー王国の初代スルターンであったクリー・クトゥブ・シャー(1512-43)を葬った墓建築である。基壇の上に造られており、蓮弁に囲まれたドームを頂く。ゴールコンダに残る他のスルターンや王家関係の墓の中では、初期の造営だけに装飾も他に比べるとやや簡素である。八角形の墓室の内部は今は白く塗られているが、二重、三重の広めのアーチを持つニッチや上部を飾る交差アーチのコーニス、そしてさらに上部の移行部は16角形をなしており、特異な雰囲気をかもし出している。基壇の上に乗る中央の黒大理石の墓石がスルターンのものである。(荒松雄)

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 ▲南西より  


4.TOMB OF SUBHAN QULI QUTB SHAH

拡大してみる 父のジャムシェードの死後、わずか七歳で三代スルターンに推されながら同じ1550年に夭折した彼の墓は父帝のそれの北方、初代クリー・クトゥブ・シャーの墓と同じ基壇の上にその西側に造られている。四角平面の外観は、四面とともにデカン建築特有の多重アーチや華麗な装飾を備えており、屋上の欄干やドームの基部にも豊かな装飾文様が施されている。他の王の墓建築と異なってこの宝珠形のドームが縦の筋状の彫線で飾られている点も目立っており、幼帝の墓所とも思われない立派な造りである。(荒松雄)
▲南西より。奥にスルタン・クーリー・クトゥブ・シャーの墓の西面が見える  

 


5.BAOLI 

拡大してみる ゴールコンダの大城砦で驚かされるのは、水の確保に対する対策、とくに揚水施設と貯水に対する工夫である。水の確保は、デカンの要衝ゴールコンダの市壁の内外、とりわけ自然の丘を利用して造られた主城砦において、為政者たちにとっての最も重要な課題の一つであったと思われる。ここではクトゥブ・シャー朝の王家の墓地内に設けられた貯水井戸すなわちバーオリーを紹介する。北インドでバーオリーの名で呼ばれた貯水井戸は、水面に近づくことができる階段を備えた階段井戸を含めて「ワーゥ wau」とも呼ばれていたようである。
 城砦外に造られているこのバーオリーは、二辺に二段と一段のアーチを連ねる回廊を持つ、ほぼ方形をした水槽を備える堂々たる貯水井戸である。立派な揚水施設を備え、その一面は取水溝となっている。設立の歴史的背景は不明だが、アーチの様式からするとおそらくはクトゥブ・シャー朝期に造られたものとみていいであろう。現在も使われている。(荒松雄)
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 ▲北から遠景で市壁をみる  

 


6.TOMB OF JAMSHID QULI QUTB SHAH

拡大してみる 二代スルターンのジャムシェード・シャー(在位1543-50)の墓は、クトゥブ・シャーヒー王国の王墓のなかで西南端に立っている。他の王墓とちがってこの墓だけは八角平面の二層の建造物で、それぞれの層はこの時代特有の装飾を施された欄干で囲まれており、各面は二重のアーチで飾られ、上層の角ににのみ小塔が付設されている。ただし、ドームは他の王たちの墓建築のそれと変らない。八角平面の墓建築は、デカンの建造物では他に類例が少ない。それぞれ三重のアーチを持つ端正なニッチで囲まれた墓室内には三つの墓石があるが、最大の墓がこのスルターンのものである。

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 ▲外観全景  

 


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