GULBARGA

 

 14世紀中頃、デリー勢力から独立を遂げたバフマン朝が首都とした町である。旧城砦にはジャーマ・マスジドが残るだけで、他の部分は崩壊がはなはだしく荒野と化している。現在の町の中にジャーマ・マスジドとほぼ同時期に建立されたシャー・バザール・マスジドが位置する。バフマン朝の王家の墓地は2ヶ所に分かれ、バフマン朝の8代までの王様たちは西の郊外にあるセ・グンバズと北東の郊外にあるハフト・グンバズに葬られている。1428年にバフマン朝の首都はビーダルへと移されるが、グルバルガはチシュティー派の聖者ゲースー・バンダ・ナワーズのダルガーがあることで栄え、そこにはいくつかのバフマン朝期の墓建築が残っている。(深見奈緒子)

 

<代表史跡>
1.JAMA MASJID (1367)
2.SHAH BAZAR MASJID (1358-75)
3.SE GUMBAZ (14世紀後半)
 a)TOMB OF HASAN GANGU BAIHMANI (1358)
 b)TOMB OF MUHAMMAD SHAH BAIHMANI (1375)
 
c)TOMB OF MUHAMUD SHAH T
4.HAFT GUMBAZ (14世紀末―15世紀初頭)
 a)TOMB OF MUJAHID SHAH (1378頃)
 b)TOMB OF DAUD SHAH (1378頃)
 c)TOMBS OF SHAMS AL-DIN & GIYATH AL-DIN (1397頃)
 d)TOMB OF FIROZ SHAH BAIHMANI (1422頃)
 e)ANONYMOUS TOMB
5.CHOR GUMBAZ (1420)
6.城塞


1.JAMA MASJID  
拡大してみる 旧城砦地区の内部に残っているモスクで、ムハンマド・シャーが前項のモスクにつづいて造ったバフマン時代初期の建造物として重要である。西側に大ドームを掲げ、モスク全体の四隅に中規模のドームを配し、中央には露天の庭を設けずに多数の小ドームを配列するという、デカンばかりか南アジアのモスクのなかでもきわめて興味深い構造と形態のモスクである。主な入口は北側に造られ他の三方とは違った一段高いアーチ形の門を設けている。西側礼拝室の白く塗られ装飾を施していないアーチの柱列の間が、その広いアーチの故に堂々たる雰囲気をかもし出している。(荒松雄)

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2.SHAR BAZAR MASJID
拡大してみる デカンで最初のムスリム王国の首都であるグルバルガーに残る建造物は、デリーのトゥグルク朝時代の建築の影響をつよく示していると同時に、イラン的要素の導入も見られる。グルバルガーのの城砦の北方に造られたこのモスクはムハンマド・シャー一世の時代に建てられた二つのモスクのうちの初期のもので、壮大なスケールをもってはいるがデリーのフィーローザーバード宮廷区域に残る大モスクとさまざまな点で似ている。
 その礼拝室はドームを頂く堂々たる東の正門にくらべて小さな目立たないドームを90個も載せている造りで、15個のアーチ形の入口を開いている礼拝堂の内部は奥行は六間から成り立っており、アーチの間の列柱は白く塗られているのみで何の装飾も彫刻も施されていない素朴な造りであるが、かえって荘厳な雰囲気をかもし出している。東門との間は広い前庭によって占められているがいわゆる側室や回廊は造られてはいない。(荒松雄)
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3.SE GUMBAZ 

グルバルガの西郊外にあるバフマン朝王家の墓所で、
Ala al-Din Hasan Gangu Baihmani(1st Baihman Sultan/1347-58), Muhammad Shah 1st(2nd BS./1358-75), Mahmud Shah 1st(5th BS./1378-97)の墓が並ぶ。


a)TOMB OF HASAN GANGU BAIHMANI

拡大してみる 1347年から58年に至る間にバフマン勢力の基盤を築いた彼の墓所は、次項に紹介する二代と五代スルターンとともに旧城砦の西方に残っており、第一の王室の墓域を形成している。基壇の上に造られたこの初代スルターンの墓は、バトゥルメントを巡らせたドームを頂く屋根を持つ四角平面の簡素な造りで、その造営年代からデリーのトゥグルク朝時代の墓建築の影響がきわめて顕著であるが、私にはバフマン王朝の最初の創始者の墓所にふさわしい堂々たる威厳を持つ権力のように思えた。(荒松雄)

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b)TOMB OF MUHAMMAD SHAH BAIHMANI

拡大してみる バフマン朝第二のスルターンで、1358年から75年まで君臨したるこの人物の墓は、前項のハサン・シャーの墓所の西側軸線上に造られており、その造営年代も1375年と推定されている。バフマニー・スタイル初期の四角平面を持つドームを頂く単純な様式の墓建築で、ドームは他の墓建築よりさらにひろく平坦に造られている。ただ、墓室内部の西側のミフラーブは、この墓の外部の簡素な雰囲気に似ない凝った造りで興味があった。(荒松雄)
 さらに、この墓西側には、少し離れて独立したミフラーブ壁が設けられている。この構築物はデリーの壁モスクとよく似た形態である。(深見奈緒子)

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c)TOMB OF MUHAMUD SHAH T

ムハンマド・シャーの墓の近くにあり、1378−97年の長きにわたって王位に就いていたスルターンではあるが、私自身は近接しての観察を怠った。ただ、その遠望の写真はさきの二代目スルターンのドームを頂く四角平面のほぼ同形の墓とともに残っているので、ここに転載しておく。(荒松雄)


4.HAFT GUMBAZ

 グルバルガの東郊外にあるバフマン朝王家の墓所で東西に広がる。西側から順に、
Mujahid Shah(3rd Baihmanid Sultan/1375-78) , Daud Shah (4 th BS./1378) その北東にGhiyath al-Din Shah(6th BS./1397)Shams al-Din Shah(7thBS./1397)その南東にFiruz Shah(8th BS./1397-1422)、さらに南にと北東に被葬者不明の墓建築が建つ。

 a)TOMB OF MUJAHID SHAH
 b)TOMB OF DAUD SHAH
 c)TOMBS OF SHAMS AL-DIN & GIYATH AL-DIN
 d)TOMB OF FIROZ SHAH BAIHMANI

 
a)TOMB OF MUJAHID SHAH

拡大してみる 先代2人のバフマン朝初期の支配者の墓廟とは別のグルバルガー城市の東の郊外に中期以降の七人の支配層の墓が造られており、その数からこの地は「ハフト・グンバド」すなわち「7つのドーム建築」と呼ばれてきた。狭い道路の南側には披葬者不明の2件を含めて9人の墓所が残っているが、この3代スルターン(1375-78)の墓は、その南側墓域の西端に残っている。低いが広い基壇の上に造られたドームを頂くこの墓は、西側をのぞく三方に大小3つのアーチの入口を開くバフマン・スタイルの四角平面の、かなりの威厳を備えている墓所である。(荒松雄)

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b)TOMB OF DAUD SHAH

拡大してみる 1378年に一年足らずの王位に就いたこの四代の墓は前項の墓建築の東側に残っているが、このハフト・グンバド墓域の墓建築の一つの特徴である同じ基壇の上に造られた二件連続の長方形の墓建築スタイルの一つである。弱小の王であったせいか、後述の八代目の墓所に比べると規模が小さい。(荒松雄)

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c)TOMBS OF SHAMS AL-DIN & GIYATH AL-DIN

拡大してみる シャムスッディーン・バフマニーの墓 
  スルターン・ギヤースッディーンの墓と同じ基壇の上に、接するかのように建てられた墓建築で、さまざまな点でよく似ている。ただ、壁面の緩やかな傾斜はこの墓の方がやや著しいようである。前項の墓建築と同じく、トゥグルク時代のデリーの建造物の特徴の影響が著しい。この若い傀儡君主シャムスッディーン・ダーウードもまた、近親間の内紛に乗じられて同じ年に退位を迫られ、盲目にされたのちにメッカへの巡礼を許されたが、同地で死んだという。
ギヤースッディーン・バフマニーの墓
  低い基壇の上に造られたドームを頂き屋根の縁辺にバトゥルメントと四隅の小塔を備える四角平面の墓建築で、そのすぐ東側には同じ基壇の上にほぼ同形式のその子のシャムスッディーン・バフマニーの墓が建っている。ギヤースッディーンは1397年に六代スルターンに登位したが、わずか1月と26日在位しただけで盲目にされ退位を強いられた。しかし、。二重アーチの入口には立派なジャーリー・スクリーンが作られており、その悲惨な生涯にしては他のスルターンの墓に比べてむしろ立派な墓所だという感じがする。
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d)TOMB OF FIROZ SHAH BAIHMANI

拡大してみる  1397年にシャムスッディーンを継いでスルターンに登位したフィーローズは、その死の直前に弟のアフマド・ハーンによってスルターン位を奪取されたが、バフマン勢力の歴史の実情においてはグルバルガ最後の君主といってもよいであろう。実際、彼の墓所はその地位を示すようにハフト・グンバドの墓建築群のなかでは最も威厳を感じさせる建造物といえよう。トゥグルク・スタイルの二つのドームを掲げたこの墓建築は、どうみても先代の二人のスルターンのそれのように密接した二件の独立の建造物ではなく、先先代と同じく壁面を連ねる一つの建物なのである。(荒松雄)
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e)ANONYMOUS TOMB

やや高めのドームを頂く四角平面の小型の墓建築である。南側に三重のアーチ形の入口を開いているが、他の三面は閉ざされた壁面を成している。埋葬されている人物は不明である。(荒松雄)


5.CHOR GUMBAZ

拡大してみる  旧城市の北側の丘に残っている堂々たる四角平面の墓建築で、当地の著名なスーフィー聖者のバンデ・ナワーズ・ゲースー・ダラーズのために1420年に造られたといわれているが、実際には使われなかったという。四つの壁面はいずれも二層に分かれ、アーチ形の入口と窓とを中央にいずれの面も左右上方に円形文様を配したアーチ形のがんをそれぞれ二個ずつ持っており、堂々たる外観を備えている。屋根の四隅に造られているドームを頂くキオスク風の小建築は、屋根に登ってみると階段を備えた入口を持っていて興味深い造りである。さらに圧巻は内部のスクインチや、その上の天井の下方を走っている二重の蓮弁の列と、その上に小さく並べられた小さなアーチ形のがんであり、その特異さは他に例を見ないものがある(荒松雄)

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6.城塞

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