BIJAPUR


 バフマン朝から独立を宣言したアーディル・シャー朝の初代ユースフ・アーディル・シャーが16世紀前半に中心部の円形城砦を築いた。城砦の周囲にほぼ楕円形の市域が広がり、第5代アリー・アーディル・シャーの時代に5つの市門をもつ市壁が構築された。16世紀から17世紀末までのアーディル・シャー朝時代には首都として栄え、数多くのイスラーム建築が建造され、今もなおその姿を見ることができる。中央の城砦と東市門を繋いで東西に走る大通りの南がわにジャーマ・マスジドが位置する。数多くのモスク建築の他、アーディル・シャー朝の君主は、とくに5代以後の君主は自分自身の墓建設に執着したことに注目できる。中でも第6代イブラヒームを葬ったイブラヒム・ラウザ、第7代ムハンマドを葬ったゴール・グンバズは有名である。イブラヒム・ラウザはビジャプールの西郊外に、ゴール・グンバズは市壁内東端部に位置する。(深見奈緒子)
 

1.JAMA MASJID (1576)
2.GOL GUMBAZ (1655)
3.IBRAHIM RAUZA
4.TAJ BAOLI
5.TOMB OF JAHAN BEGAM
6.SHAH KARIM MUHAMMAD

1.JAMA MASJID

拡大してみる ビジャープル市の南東の部分に造られており、その広さからみてもアーディル・シャー朝の最大の遺跡の一つである。モスクの東側には、両側に部屋を備えた立派な入口の門を持ち、南側にも小さな入口があるが、北側にはかなりの規模の張り出した門が造られている。西側の礼拝室は九つのアーチ形の入口から成り、その奥行は五間で、ジャーマ・マスジドとして多数の礼拝者を収容し得る広い空間をつくり出している。この礼拝室の上に掲げられた大ドームは、外観を見れば小さいアーチのがんの列とバトゥルメントや小塔を備えた基壇状のドラムの上に載っており、礼拝室の正面と同様にほとんど装飾を施さない白い外観がこのジャーマ・マスジドに清楚な雰囲気を与えている。 南北の壁面の内側に回廊様の部屋が礼拝室から張り出すかたちで造られており、東側正面の入口から見ると、途中で中断された回廊部がかえってこのモスクの外観の威容をさらに増す感じを抱かせる。中庭の中央部には、かなりの規模の水槽が設けられている。(荒松雄)
 
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▲北東より全景  

 

2.GOL GUMBAZ

拡大してみる ビジャープルはこの巨大な歴史的遺跡の存在の故に知られているといっても過言でないほど、南アジアで最も有名な建造物である。その半円形の巨大なドームの大きさはロンドンのセント・ポール寺院のそれに、またその墓室内部の広さ(18338平方フィート)はローマのパンテオンのそれ(15833平方フィート)をはるかに上回るものとして、しばしば比較の対象となっている。ゴールとは「丸い」を意味し、グンバズは「グンバド」すなわち「ドーム」乃至は「ドームの建造物」からの転訛で、その呼称は「丸いドームの建物」を意味するにすぎない。
 その巨大さの故に知られるこの遺跡は、ビジャープルの歴史のなかでの最高の権力者として君臨したムハンマド・アーディル・シャー(在位1627-55)が、その存命中から造営させたもので、その漆喰塗りが終わらない、つまり自らの墓所の完成をみないうちに死んだといわれている。(荒松雄)
 
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 ▲南東よりモスクと墓建築を撮影  

 

3.IBRAHIM RAUZA

 ゴール・グンバズが南アジアでもその例を見ない巨大なドームを頂く壮大な墓建築であるとすれば、イブラーヒーム・ロゥザの名で知られるこの墓建築とモスクが併設されているこの建築は、ビジャープルのみならず南アジア全域にのこる遺跡群のなかでも、その繊細な造形と華麗な装飾との点からみて最も注目される遺産といえると思う。ロゥザ rauzah とは本来は庭園の意味であるが、のちには墓廟そのものにも用いられるようななった。この広大な囲壁に囲まれた墓廟は、もともとはイブラーヒーム・シャーII世がその生前に愛妃タージ・スルターナ Taj Sultanah のために造らせた建造物だが、1037AH年(1627-28)に王の方がさきに死んだので、その墓室のなかに葬られた。墓室のなかには数基の墓石が設けられているが、そのなかの最も目立つ墓石がイブラーヒームのもので、その隣の女性の墓が1043AH年(1633)に死んだ王妃タージ・スルターナのものとされている。(荒松雄)
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4.TAJ BAOLI

 ビジャープル市の西端のマッカー・ダルワーザの近くにあるほぼ四角の堂々たる貯水池で、アーチ形の変わった窓を持つ部屋を並べる北側の部分のほかはバトゥルメントを連ねた壁を設けているが、この三方の壁にもその中央部に部屋が造られている。北側の両脇に連なる部屋の中央部には大きく広いアーチ形の入口が開かれており、左右から取水のために水面に降りられるように階段が設けられている。この北側入口の外には左右に小ドームを頂く八角形の太めのミーナールが設けられている。
 この壮大なバーオリーの造営については諸説がある。イブラーヒーム二世の妃のタージ・スルターナのために、イブラーヒーむ・ロゥザを造った建築家のマリク・サンダルのに帰するものと、スルターン・ムハンマドがマリク・サンダルを冷遇した代償に費用を捻出し、彼の名を留めるこの壮大な貯水池を造らせたという、二説が行われているという。(荒松雄)

 

5.TOMB OF JAHAN BEGAM

 ビジャープルの町の東郊、イブラーヒームI世のア家臣だったアイヌル・ムルクの墓のあるアイナープルに、未完に終わったかなりの規模の墓建築の遺跡が残っており、ムハンマド・アーディル・シャーの妃の一人であったジャハーン・ベーガムの墓所といわれている。しかし、その歴史的真偽は不明のようである。
 この未完の墓建築の遺跡に残っている数基の墓石群は、墓建築が未完にもかかわらず基壇の上に設けられた堂々たるものであり、ジャハーン・ベーガムの墓とされるもののほか、ムハンマド・シャーの母のタージ・スルターナのそれとされるものもある。しかし、彼女は前述のイブラーヒーム・ロゥザに葬られており、この点からもこの墓建築に残る墓石の主人公についての俗説にはかなり疑わしいものがあるといわざるを得ない。
 ただ、この未完の墓建築がとくに注目されるのは、ビジャープル残存の遺跡群のなかで、その全体の規模や構造がさきに紹介した巨大な墓廟であるゴール・グンバズのそれに似通う点が多々あるからで、とくにやはり未完のままのアーチ形の窓を開いた四隅の壮大なミーナールは、この著名な墓廟のそれときわめてよく似ている。ただ、未完のドームは墓廟全体よりも墓室自体の上に架けられる予定で、また墓建築全体の四面のアーチも開かれたままである点の際を説くものもいる。さらにこの墓建築の南側には、三つのアーチ形の入口を開き奥行二間の完成されたモスクが残っていて、その形態と構造も整っており、位置からみて明らかにこの壮大な未完の墓建築に付設されたものと推定されるのである。披埋葬者の歴史的真偽のほどはともかく、これらの点からも紹介に値する遺跡といえよう。(荒松雄)

 

6.SHAH KARIM MUHAMMAD

 長い連弁を備えた宝珠形のドームを頂くやや高めの四角平面の墓建築で、ドームはさらに五つのアーチ形を持つ基壇に支えられており、その四隅にも四角い墓室そのものと同じく小ドームを頂くミーナールを掲げている。墓室は各面に三つのアーチ形のがんを持っているが、ビジャープルの多くの同種の建造物とはちがってそのまま開かれてはいず、中央の入口や左右の窓のほかは壁で閉ざされている。この地に残る歴史的建造物のなかでは後期に属するものといえようが、私にはドームの基部や正面入口のアーチの周辺の装飾や文様彫刻が複雑で興味があった。
 この墓の主人公は、ハズラト・サイイド・カリーム・ムハンマド・サヘブと呼ばれてこの地方で崇敬されていたスーフィー聖者で、
1105AH年(1693)に死んでいる。墓室入口の正面に残る刻文によると、この建造物の建立は死後数十年経ってからであるが、その弟子や信奉者を多数集めたという。(荒松雄)

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