PANDUA


 ベンガルに新たな独立政権イリヤース・シャー朝を築いたファクル・ウッディンが1338年に新都の造営をおこない、ガウルからここパンドゥアへと遷都を行った。この都をムスリムたちはフィーローザーバードと呼んだ。幅4メートルあまりの煉瓦舗装路やガウルのヒンドゥー寺院から運ばれた転用石材にその痕跡が残る。同朝下で、ジャーマ・マスジドとして建立された建築が巨大なアディナ・マスジドである。しかしながら、1420年にはイリヤース・シャー朝は再びガウルへと遷都し、パンドゥアは東ベンガルの一地方都市となった。(深見奈緒子)

1.EKLAKHI TOMB (1431)

2.ADINA MASJID (1364-74)

3.QUTB SHAHI MASJID (1582)

 


1.EKLAKHI TOMB

拡大してみる ヒンドゥー王ラージャ・ガネーシュの子でイスラームに改宗したスルターン・ジャラールッディーン(1431)の墓とされており、ゴゥル現存のチカー・マスジトによく似た、堂々たる1つのドームを頂く煉瓦造りの墓建築で、クトゥブ・シャーヒー・マスジトやヌール・クトゥブ・アーラムのダルガーの近くの地に残っている。外部の壁面やその上部に残る壁ガンやさらに四隅の柱に施された人像や繊細な文様から、ヒンドゥー石膏の作品と推定されている。墓室内は各辺がアーチで彩られた八角形で、基壇の上に乗る王とその妻子を葬る3つの墓が現存している。(荒松雄)

 
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▲南東から撮影  

 

2.ADINA MASJID

 「金曜日のモスク」を意味するこの建造物は、中央礼拝室の一部と西側壁面の大半、および長い回廊と内室の柱列の一部を残すだけの廃墟の遺蹟となっているが、その残存部から推してみても南アジア最大の広さを持つ長方形の壮大なモスクであったことがわかる。パーンドゥアを拠点としてデリーから独立したイリヤース・シャーヒー朝の2代スルターンたるスィカンダル・シャーによって、766-776AH(1364-1374)の間に造営されたもので、フィーローズ・シャー・トゥグルクの軍を破った記念に建てられたと推定する学者もいる。(荒松雄)

 →詳しい説明
 
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▲中庭からイーワーンをみる   

 

3.QUTB SHAHI MASJID

拡大してみる  15世紀初頭に大きな影響力をもっていたスーフィー聖者ヌール・クトゥブ・アーラムの子孫で、この聖者の信奉者であったマフドゥーム・シェイフによって1582年に造営されたモスクであることが正面入口のアーチの上に残る刻文からわかり、その名もこのスーフィー聖者に由来している。内部は柱で隔たれ二廊に分かれている。5つの入口に対応する10ドーム天井はすべて崩落してしまっているが、5つのミフラーブとともに西側キブラ壁は残っており、アディーナ・マスジットのそれによく似た造りのミンバルも現存している。モスクの東側には裏側が崩れた堂々たるダルワーザが残っている。(荒松雄)

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▲東からの外観  

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