AJMER


 チシュティー派シェイフ、ムイーヌ・ウッディーン・チシュティーを葬るダルガーの町として名高い。タラー・ガルフ丘の東北の裾野に位置する。
 アジメールの名はチャウハン朝の王、アジャイパルに所以すると言われ、1024年にガズナ朝のマフムードが、1193年にゴール朝のムハンマドによって侵略された。その後、デリーのイスラーム王朝の支配下に入り、アルハーイー・ディン・カ・ジョーンプラー・マスジドが建設され、先のムイーヌ・ウッディーン・チシュティーもこの町に住みつくこととなった。ムガル朝期には、要衝としての重要性に加え、風光明媚なこの地はスルタンのお気に入りの地となる。アクバルの宮殿やバード・シャーヒー宮殿、バラダリなどこの時代の、いくつかの建築がいまものこる。(深見奈緒子)

→町の風景 

 

1.ARHAI DIN KA JHOMPRA1211-35



1.ARHAI DIN KA JHOMPRA

拡大してみる タラー・ガルフ丘の東北の裾野に位置するアジメールの町のはずれ、山裾にあたる南西隅部に位置する。東側入口は北東へと続く町の方角へと向かい、南、西、北側を丘陵に囲まれている。このモスクの創建はデリー・スルタナット最初期、13世紀初頭で、イルトゥートウミッシュ(1211―35)の治世下に完成されたとカニンガムは述べる。この地にはジャイナ教の学院建築があったとされ、その転用材ばかりではなく平面形態もほぼ踏襲されたとも言われる。
 ほぼ正方形の外周壁を持ち、南と東に門を持ち、内部の中庭の周囲は西側に礼拝室、他の3方を廻廊部とする。礼拝室の東側にはアーチ壁が作られ、中央の一段高いアーチの両脇に3つづつアーチが開口している。このモスクの中庭は一段高い基壇上につくられている。
 東門は長い階段を上がった上にあり、東面翼部に列柱出窓を突出させた建築である。門自体は中央の開口部の両脇に二層の小部屋を設けた形で、インド在来の構法をそのまま用いている。南門も階段上にあるものの、ほぼ正方形の平面で、持ち送り式のドームを頂いている。
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