AHMADABAD
古くはマーター・バヴァーニーのワーウの残るアサールワーの地に町があったらしい。アフマド・シャーは、アンヒルワーダ・パタンからここアーメダーバードへと1411年に遷都した。彼は南下するサブラマディ川に面する東の高台、バドラを宮殿域とし、新都市の造営を始めた。この頃の建築は、バドラの北ミルザプールにあるサイイド・アーラムのモスク、バドラの南西端のアフマド・シャーのジャーマ・マスジド、バドラの南に位置するハイバット・ハーンのモスクがある。
アフマド・シャーは、新都市計画の中心として、バドラの東にティン・ダルワザを構築しそこから東へ向かう大通り、マニク・チョウクを建設した。そして、その南側にジャーマ・マスジド、彼の墓廟、王妃の墓廟を新都市の核として西に向かう軸線上に並べた。
その後、アーメダーバードは繁栄を極め、町は次第に大きくなり、さらに貴族達は郊外に新たな居住地を設け、プラと呼んだ。対岸のウスマンプルや東郊外のラージャプルはその例である。
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1.MOSQUE OF
SAYYID ALAM (1412) 2.AHMAD SHAH'S OLD JAMI (1414) 3.MOSQUE OF HAIBAT KHAN (1420頃) 4.JAMA MASJID (1424) 5.MOSQUE OF QUTB AL-DIN SHAH (1449) 6.TOMB & MOSQUE OF AHMAD KHATTU GANJ BAKHSH (1450頃) 7.MOSQUE & TOMB OF SAYYID UTHMAN (1460頃) 8.MOSQUE & TOMB OF BIBI ACHUT KUKI (1469) 9.DARGAH OF SHAH ALAM (1483) 10.MOSQUE OF MUHAFIZ KHAN (1492) 11.WAV, MOSQUE & TOMB OF BAI HARIR (1500) 12.ADALAJ WAV (1502) 13.MOSQUE OF RANI RUPMATI (1510頃) 14.MOSQUE AND TOMB OF RANI SIPARI (1514) 15.MOSQUE OF SIDI SAYYID (1561-1573) 16.MATA BHAVANI'S WAV (11世紀頃) 17.TOMB OF AHMAD SHAH T 18.MINARET OF SIDI BASHIR 19.KANKARIYA TANK |
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このモスクの中央のミフラーブの上にあったといわれるペルシア語の刻文によると、このモスクは、スルターン・アフマド・シャーI世の治世の815AH年のラジャブ月(1412)に、サイイド・アーラム・アブー・バクル・フサイニー
Saiyid 'Alam 'Abu Bakr Husaini
なる人物によって造営されたといわれる。その称号がこのモスクの呼称に用いられたとされているが、この刻文の所在については異説もあるようである。しかし、このモスクがアフマダーバードに残るモスクのなかでの初期に属するものだとする説には、この遺跡の各所にみられる特徴からみてたしかなものがあると思われる。(荒松雄) →詳しい説明 →平面図と写真一覧へ |
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アフマダーバードに残る中世のモスクや墓のなかでは初期に属する建造物で、中央ミフラーブの上部に掲げられた歴史刻文によると、その創設は817AH年シャッワル月4日すなわち1414年12月7日であることが知られる。(荒松雄) →詳しい説明 →平面図と写真一覧へ |
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市の南門にあたるジャマールプル
Jamalpur
門の内側わずかの地に残るモスクで、創設に冠する歴史的刻文はないが、二代スルターンのアフマド・シャーI世(在位1411-42)の叔父で重臣の一人であったハイバト・ハーンによって1420年代前半に造られたものとされ、その名で知られている。(荒松雄) →詳しい説明 →平面図と拡大写真 |
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アフマダーバード市のほぼ中央部に位置しており、メイン・ストリートたるマニク・チョウク
Manik Chauk の南側に残っている。ジャーマ・マスジドだけに、市内の数多くのモスクのなかでも堂々たる造りだが、その形態と構造とは、サイイド・アーラムのモスクとアフマド・シャーのモスクに似ている。1414-15年頃に造営させたものという説もあるが、中央ミフラーブの上部に掲げれた刻文には、827AH年サファル月1日すなわちスルターン・アフマド・シャーの治世の1424年1月に造営されことを記しているという。この点からすれば上述の二つのモスクよりは遅れて、1420年代に属するとされるハイバト・ハーンのモスクとほぼ同年代に創建されたものということになる。(荒松雄) →詳しい説明 →平面図と写真一覧へ |
5.MOSQUE & TOMB OF
QUTB AL-DIN SHAH
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地方的には「パッタルワーリー・マスジッド
Pattarwali Masjid
」すなわち「石のモスク」を意味する俗称で呼ばれ、デリー門から南下する通りが分岐する地点,、市内の最も繁華な場所に造られている。礼拝室の五つのミフラーブのうち、中央ミフラーブは他のモスクと同じく、彫刻で飾られているが、その上部にはアラビア語の刻文が残っていて、「ヒラール・スルターニー
Hilal Sultani」の子の「ニザーム Nizam」によって、スルターン・ムハンマド・シャーの治世に当たる「853AH年ラマザーン月6日」つまり1449年10月に造営されたことを記しているという。(荒松雄) →詳しい説明 →平面図と拡大写真へ |
6.TOMB
& MOSQUE OF AHMAD KHATTU GANJ BAKHSH
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スルターン・ムハンマド・シャーの時代に、アフマダーバード市の南西方十キロの地点に、ラージャスターンのナーゴゥル
Nagaur にいた著名なスーフィーのバーバー・イシャーク・マグリービー・ハットゥー
Baba Ishaq Maghribi Khattu
の弟子であったマフドゥーム・シェイフ・アフマド・ハットゥー(1336-1445)にちなんださまざまな建造物が造営された。(荒松雄)
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7.MOSQUE
& TOMB OF SAYYID UTHMAN
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サイイド・ウスマーンは、スルターン・マフムード・ベガラーの治世(1459-1511)のスーフィー指導者の一人で、アフマダーバード市の北西に当たるサブラマティー川対岸の地を、ウスマーンプルなる地名で呼ばれるようになる修行の中心地とした。そのダルガーの中心は一五世紀後半に造営されたモスクと彼の墓であるが、このスーフィー聖者自身は936AH年ジュマーダーI月(1530年1月)に没している。(荒松雄) →詳しい説明 →平面図と写真一覧へ |
8.MOSQUE
& TOMB OF BIBI ACHUT KUKI
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小振りながら堂々たるグジャラート様式のモスクで、その中央礼拝室の中央ミフラーブの上部に掲げられた歴史刻文はその創建を874AH年(1469)とし、建立者の名バハー・ネク・バフト・スルターニー
Baha Nek Bakht Sultani
と記しているが、このモスクの俗称となっているビービー・アチュート・クーキーの名については何の記述も見当たらない。ラジャン氏は、この女性はおそらくは宮廷のハレムにいた重要な人物だっただろうとの推察を記している。マフムードI世ベガダーの治世に造られた重要な建造物の一つである。(荒松雄) →詳しい説明 →平面図と写真一覧へ |
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グジャラート地方に大きな宗教的影響力を持っていたブハーリヤー・サイイド
Bukhariyah Saiyid 派の始祖であるブルハーヌッディーン
Burhan al-Din の子のムハンマド・シャー・アーラムとその一党は、アフマダーバードを中心としたアフマド・シャーヒーの支配層にも崇敬を集めていた。アフマダーバード市の南方にあるシャー・アーラムの墓とその境内に造られたモスクやジャマーァト・ハーナなどを中心とする彼のダルガーは、今日もなおグジャラートの敬虔なムスリム民衆の崇敬を集める最も著名な宗教的な中心地となっている。(荒松雄) →詳しい説明 →平面図と写真一覧へ |
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ムハーフィズ・ハーンはその名をジャマールッディーン・スィラーフダール
Jamal al-Din Silahdar といい、七代スルターンのマフムード・ベガラーの廷臣の一人でワズィールの一人となった人物である。その名を冠して呼ばれてきたモスクは彼自身の造営したものとされ、北市門たるデリー門から南下する通りに面して、クトゥブ・シャーのモスクの南に建てられており、アフマダーバードの他のモスクに比べるとやや小型の建造物であるが、その東側正面の上部に出窓を設け、その下に細く高い三つのアーチを開き、両端にミーナールを備える風格のあるモスクである。(荒松雄) →詳しい説明 →平面図と写真一覧へ |
11.WAV , MOSQUE & TOMB OF BAI
HARIR
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アフマダーバード市の北東の郊外、マーター・バワーニーのワーゥの近傍に残る遺跡で、ワーゥすなわちバーオリー(階段井戸)とともにモスクおよび墓建築が残っている。その特異な気候条件と社会的要請から、この地の支配層は相当数の貯水池やバーオリーを設けた。この階段井戸も、井戸と近傍のモスクに残る歴史刻文の記述によって、七代スルターンのマフムード・ベガラーの治世の906AH年(1500年)に完工されたことがわかるのである。(荒松雄) →詳しい説明 井戸写真一覧へ モスク・墓写真へ |
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アフマーダーバードの北郊外約20キロのアダラージ村にあるワーウ(階段井戸)である。バーイー・ハリールのワーウとほぼ同時期の階段井戸ながら、アフマダーバードに現存する階段井戸の中では最も規模も大きく手の込んだ造りである。入口部が南側にあり階段は北へと続き、最北部に八角形と円形のの水を湛える井戸部のシャフトが作られる。南部に設けられた入口広間が、西と東にも地上からの階段を有し、十字形をなしている点は他のワーウとの相違点である。この南入口広間にはドームが架かっていたのではないかとバージェスは想定している。 入口広間に残るサンスクリットのインスクリプションには、ヴィーラシンハの王妃ルージュハーによってマフムードの治世下1502年に建立されたことが記されている。これを示すかのように細部にはヒンドゥーの神々の像やモチーフが各所にみとめられる。(深見奈緒子) →写真一覧へ |
13.MOSQUE & TOMB OF RANI RUPMATI
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その東側正面の中央部はバーイー・ハリールのモスクによく似た造りで、高いアーチ形の中央入口の両脇に彫刻装飾のきわめて豊かな太目のミーナールを備えている。一段と高く造られている中央吹き抜け部は12本の細く長い柱で支えられた持ち送りドームを頂く建造物となり、そのドームの内天井はヒンドゥー様式の文様が施されている。高いドームを頂くこの中央部の両側には、低いドームを載せた両脇の部屋がある点は、ビービー・アチュート・クーキーのモスクを踏襲している。しかしながら、入口アーチの両脇にそれぞれ手の込んだ出窓を作りだしており、それらも異教のそれに似た造りと彫刻文様とを備えている。(荒松雄) →詳しい説明 →平面図と拡大写真へ |
14.MOSQUE
AND TOMB OF RANI SIPARI
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アフマダーバード城砦の東南部に残るアストディアー門の内側に造られたモスクと墓建築で、モスクの中央ミフラーブの上部に掲げられた歴史刻文によって、スルターン・ムザッファル二世の治世の920AH年(1514)にスルターン・マフムード・ベガラーの子のアブー・バクル・ハーンの母、ラーニー・サーァブライー(ラーニー・スィープリー)によって造られたことがわかる。モスクと墓建築とはともにやや高めの同じ基壇の上にやや離れたかたちで造られているが、同一の軸線上にのる。(荒松雄) →詳しい説明 →平面図と拡大写真 |
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このモスクは、その西側裏面をはじめ、北および南面の上部にあるアーチ形内部を飾る精巧な透かし彫り彫刻によって、ひろく海外にも知られるようになった遺跡である。アフマダーバード城壁都市の西端に残るバドラー城砦の内部に造られたモスクで、アフマド・シャーヒー最後のスルターンでアクバルに征服された17代ムザッファル三世(1561-73)の時代に、その重臣シェイフ・サァイドによって創建されたものである。(荒松雄) →詳しい説明 →平面図と写真一覧へ |
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アサールワーにある階段井戸で、バーイー・ハリールのワーウの北西にある。この井戸は東西に長い井戸で、東側に入口をもち、東へと階段が下り、最東部に円形のシャフトを有する。円形シャフト部の水は牛達によって汲み上げられ、灌漑用水に使われたという。一方階段を下ることによって人間は最下層の水面に近づくことができ、そこから生活用水を汲み上げた。また、階段状を呈するのは季節によって水面の位置が変わり、雨季には水位が上がり乾季には水位が下がることへの工夫である。マーター・バヴァーニーの名は、西の円形シャフト部に奉られた小祠堂の名に拠るらしい。バージェスはこのワーウに付いては何ら史料も残っていないがグジャラートへのイスラーム勢力進行以前の11世紀まで遡るであろうと述べる。しかしながらバヴァーニーの祠堂は近年のものであろうと付言している。(荒松雄) →写真一覧へ |
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アフマダーバードの名はアフマド・シャー一世(1410-42)の称号に由来したもので、その事実からもわかるように、この三代スルターンはグジャラートのアフマド・シャーヒー勢力を隆盛に向かわせた首長である。市の中心地の一つマネク・チョゥク Manek Chouk のジャーマ・マスジッドの近傍に残る「バードシャーヒー・カ・ハズィーラ Badshahi ka hazirah」の俗称で知られる彼の墓は、その子で四代スルターンとなったムハンマド・シャー二世の時代に完工されたといわれているが、ジャーマ・マスジッドを建立した彼自身によって造られたとする説もある。墓室内には、アフマド・シャー一世のほかにその子のムハンマド・シャー二世、孫のクトゥブッディーン・アフマド・シャー二世の墓も設けられており、さらにアフマド・シャー三世(1554-61)も葬られているという説もある。 バトゥルメントを連ねた屋根の四隅に小ドームを、中央に大きなドームを頂くこの正方形の墓建築は、各面の中央部に張り出した部分を持ち、南面中央を正面入口としている。各面の張り出し部の下方とその両脇に造られたアーチ形の窓に施されているジャーリー・スクリーンの彫刻文様は、アフマダーバードの多くの建造物と同じく見事な効果を生み出している。また、四面の突出部を中心に見られる柱はいずれも縦に走る筋型に造られていて、南アジアの中世建造物に残る列柱の様式としては珍しい。(荒松雄) |
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アフマダーバード城砦の東側のサー ラングプル・ダルワーザ Sarangpur Darwazah の向かいに造られたモスクだが、現在は近代の建造物に変えられ、本来の建造物としては二本のミーナールとそれをつなぐ基部を残すのみである。 ミーナールは三層の円形のバルコニーを持つ堂々たる造りで、そのバルコニーを支える多数の持ち送りがその優雅な造りと彫刻文様で目立っている。この完全なかたちで残っているミーナールの幅はそれほど広くはないので、本来のモスク自体はそれほど広いものではなかったことが想像されるが、ミーナールの基部すなわち本来のモスクの正面上部もまたなかなかの造りで堂々たるものであったことが推定される。この二本のミーナールは、アフマダーバードのモスクのそれに多く見られた「揺れるミーナール shaking minar」の典型で、文中の写真に示したように私も三枝氏もおそるおそる登ってみたものである。 スィディー・バシールは三代スルターンのアフマド・シャーI世の宮廷奴隷で、このモスクもその名を冠して知られてきたが、ラジャン氏によれば七代目のマフムード・ベガラーの廷臣で、その後のサーラングプルの地名の由来となったマリク・サーラング MalikSarang の造営によるものとされている。(荒松雄) |
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