本書は、家族をめぐる問題を軸として近代エジプトの社会変容の考察を試みた論考の集成である。30年前に筆者が執筆した最初の論考で問題提起をしたように、エジプトは家族志向社会とも家族支配社会とも形容されるが、実のところ家族を表す言葉は複数あり、さらにはその意味の確定が難しく、そのため分析概念としての家族概念の設定それ自体が大きな問題をはらんでいる。この問題は、1970年代に始まり、今日にいたるまで、日本の近代エジプト研究者が家族や共同体を論ずる中で、主要な議論の対象としてきたアーイラという概念に代表される。
本書では、この家族概念をめぐる問題の論争をレビューするとともに、自伝資料や文学作品を資料として家族概念の変容や意味の広がりを考察し、近代エジプトにおける家族概念の変容を社会史研究の大きな枠組みの中に位置づける試みを行った。そして様々な顔を持つ家族が近代エジプトの社会変容の過程において、それぞれの局面で果たした役割について、事例研究を示した。
それらの事例は、農村の権力関係の動態、都市化に伴う移住民の連帯意識の変化であり、政治的イスラームや民族主義運動との関係、家庭崩壊の社会問題や社会的危機の象徴として描かれる性をめぐる問題、エジプトが近代世界資本主義のサブシステムとして組み込まれる中で形成された家族的労働制度の問題にいたる事例である。家族概念をめぐる考察とともに、これらの社会変容の諸側面を扱う事例研究も、近代エジプトの社会史研究に対する地域研究的なアプローチの成果を示すものである。
なお、本書は日本学術振興会科研費基盤研究(A)「イスラーム・ジェンダー学構築のための基礎的総合的研究」(2016~19年度)の成果の一部である。同科研については、ホームページhttp://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~nagasawa/を参照されたい。
はしがき |
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凡例 |
I 家族の概念と家族関係 |
第1章 エジプトにおける家族関係の近代化 |
解説 |
はじめに |
一 エジプト社会の家族的構成――葬儀広告に見る二つの家族の顔 |
二 民族主義国家と家族的支配 |
三 社会変動と家族関係の変化 |
四 身分法改正問題をめぐって |
むすびに |
《コラム・1》 アサビーヤ概念をめぐって |
《コラム・2》 エジプト――「家の名」をめぐって |
第2章 近代エジプトの家族概念をめぐる一考察 |
解説 |
一 エジプト農村の家族(アイーラ)論争 |
二 近代エジプト自伝資料における家族概念 |
三 ナギーブ・マハフーズ『カイロ三部作』における家族概念と家族関係 |
四 社会学者サイイド・オウェイス自伝における家族概念と家族関係 |
五 むすびに――地域研究としての家族研究 |
《コラム・3》 『高野版現代アラビア語辞書』における家族表現 |
II 家族の社会史の諸相 |
第3章 近代エジプトの村長職をめぐる権力関係 |
解説 |
はじめに |
一 オムダ職の制度的発展 |
二 政治的階級としてのオムダ |
三 民衆文化に見るオムダ像の変遷――大衆演劇の事例 |
おわりに |
《コラム・4》 革命後エジプトの選挙をめぐる風景 |
《コラム・5》 アメリカとナセル的国家 |
第4章 都市化と社会的連帯――上エジプト農村とアレキサンドリア市港湾労働者社会との事例比較 |
解説 |
一 序論――問題関心の設定 |
二 上エジプト農村とサァル(feud)慣行 |
三 アレキサンドリア市港湾労働者の社会 |
むすびにかえて |
《コラム・6》 イスラーム世界の広がりと法秩序――加藤報告に寄せて |
《コラム・7》 「洪水の後」のアレキサンドリア |
第5章 アタバの娘事件を読む――現代エジプト社会における性の象徴性 |
解説 |
はじめに |
一 事件現場――アバタ広場について |
二 報道に見る事件の顛末 |
三 事件の反響 |
四 被害者に関する報道と事件審理の意外な結末 |
五 アバタの娘事件を読む |
《コラム・8》 ムハッガバート現象 |
《コラム・9》 革命とセクハラ――エジプト映画「678」をめぐって |
第6章 現代エジプトの社会問題とNGO |
解説 |
はじめに――カイロに滞在して |
一 ストリートチルドレンとNGO |
二 開発独裁と社会問題 |
三 経済自由化と社会運動 |
むすびにかえて――NGO法改正問題と民主化の行方 |
第7章 イスラーム運動とエジプト農村 |
解説 |
一 ムスリム社会運動の地域的展開 |
二 イスラーム運動と村落政治 |
《コラム・10》 現代メディアとイスラーム |
第8章 世界綿業の展開とエジプト農村の労働力問題 |
解説「第8章・第9章」 |
はじめに |
一 イギリス綿工業と世界資本主義 |
二 エジプト綿花経済の形成 |
三 エジプト農村における不自由な賃労働の形成 |
おわりに |
第9章 エジプト綿花経済における「不自由な賃労働」――イズバ型労働制度をめぐって |
はじめに |
一 エジプト綿花経済とイズバ型労働制度 |
二 前史としての強制労働制度 |
三 イズバ型労働制度における労働統制の性格 |
四 イズバ型労働制度とエジプト農村の家族 |
むすびにかえて |
《コラム・11》 エジプト農民運動の生地を訪ねて |
第10章 少年が見たエジプト1919年革命 |
解説 |
一 はじめに――研究状況の紹介 |
二 オウェイス家と一九一九年革命 |
三 帝国主義の評価――従兄と祖父の対立 |
四 権威のゆらぎ――父と叔母 |
五 母の民族意識 |
六 少年と一九一九年革命 |
注 |
あとがき |
参考文献 |
事項索引 |
地名索引 |
人名索引 |
英文目次 |
英文要約 |
長沢 栄治 著『近代エジプト家族の社会史』
東京大学出版会, 552ページ
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