イスラームは神へ帰依し神の意志に従って生きることを意味し、仏教やキリスト教とともに世界三大宗教の一つとして、民族や国家を超えて信仰される普遍宗教である。本書は、まずそのような神への信仰の原初的な具体相に焦点を当てる。そして主に神をめぐる思考、とくに神学、神秘主義、神秘哲学をほぼ年代順に解説していく。時代や地域を超えてムスリムに共通する宗教的精神性の核心、普遍的な営みから見出される意義へ迫りながら、そのような営みが時代や地域の特徴を反映して絶えず多様なあり方を示し続ける様子が、豊富な逸話をもって描き出されていく。
イスラームの聖典クルアーンの位置づけや意義は、イスラーム発生以前におけるアラビア半島の時代状況や、先行宗教であるユダヤ教やキリスト教など他のセム的一神教との関係から説き起こされる。啓示の意味が比較宗教学的な立場から解説され、他の宗教に馴染みのある人は、正確な類推の道筋を得ることができるだろう。諸宗教間の微妙なニュアンスの違いと共通性を疎かにしない認識の深さと広さが随所に見られる。また、日本語を母語とし、カミという言葉で思考する読者が前提したり気づかないかもしれない意味の射程に配慮し、蒙が啓かれる思いのする読者も少なくはないのではないだろうか。十字架のヨハネ、神道、『古事記伝』からの引用、浄土真宗の妙好人や東大寺の宗派の根本経典『華厳経』などが、衒学ではなく意味ある形で言及され、イスラームを多角的に捉える視点を門外漢にも与えてくれる。
本書はまた、解釈の歴史の一環として政治的側面も射程におさめ、あるいはクルアーンと密接な関係にありながらも一般にはあまり知られていないハディースの重要性を平易に解説している。聖典を理解するとはいかなることか、クルアーンからの多くの引用とそれへの解説を通して実例豊かに示す。また、イスラームの信仰にその生を捧げた魅力的な、しかし日本ではあまり知られていない人物、とくに神秘主義者たちの生きざまは、信仰の純粋性と多様な現れを示している。時代の経過によって現れた解釈の豊かさをここまで読み易く、魅力的に描く解説書はこれまでなかったのではないだろうか。
専門用語が分かり易く解説され、一般読者にも興味深い具体例が数多く挙げられていることは、本書の特徴と言えるだろう。それゆえ、冒頭を過ぎれば、読者は楽しく読み進められる構成になっている。例えば、クルアーンやハディースに基づくなら「利子は取ってはならない」という日常規定の一つを遵守しなければならないだろう。しかし、時代や社会制度の変遷とともに実状にそぐわない日常規定が出てくると、ムスリムたちはそれに対して柔軟な姿勢で対応していく。コーヒーは許容されるのか、インターネット利用は神の意志に適うのか。そのような興味深い議論も多く紹介されていて読者を楽しませる要素に欠かない。
しかし、本書は通俗的な解説書ではなく、著者の長年の研究を広く一般に知らしめるものである。とくに、著者が長年研究してきたモッラー・サドラー、その思想的先行者であるスフラワルディーやイブン・アラビーの最新の研究に基づく解説は長く待たれたことであった。もちろん、ここに取り上げられるものがイスラームの全てではない。が、その最も重要な側面が、いかに豊饒で魅力的なものであるかを本書は簡潔かつ分かり易く生き生きと伝えてくれる。
(小野純一[東洋大学非常勤講師]記)
本書関連地図 | |
はじめに 二つの偉大な才能/哲学と神秘主義の対立/アラビア語の表記/なぜイスラーム思想なのか |
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第1章 イスラームとはどんな宗教か | |
1 |
啓示から聖典まで 時代状況/部族という単位/啓示の実情/ムハンマドの人物像/布教の内実/ムハンマドに見えていた世界/迫害と移住 |
2 |
ユダヤ教、キリスト教における「契約」 アブラハムはムスリムだった?/古代イスラエルの契約/キリスト教の契約 |
3 |
契約を引き継ぐイスラーム アブラハムの宗教を再興する/最後の契約/恩恵を施す神と感謝する人間/原初の契約 |
第2章 ムスリムは何に従うのか | |
1 |
神が預言者に下した言葉 クルアーンとムスリム/クルアーンの形成/クルアーンの構成/読誦のかたち |
2 |
預言者ムハンマドの言行 ハディースの定着/クルアーンとの関係/ハディースはどう形成されたか/「真正さ」という基準/神秘家にとってのハディース |
3 |
聖典を解釈する 「利子を取ってはならない」/キリスト教の日常規定/文言への忠実度の違い/規定の解釈を変える/導入のための「お作法」/政治運動へのクルアーン利用/一千年を超える解釈の蓄積 |
第3章 神をどうとらえるか | |
1 |
神を見ることはできない クルアーンの「矛盾」/ムウタズィラ学派の誕生と「理性」/あまねく存在する神 |
2 |
一神教と多神教 「神」の質的な違い/社寺における神的存在一般/時空間を超えた神/一神教と多神教の区別/類型を再考する |
3 |
イスラームによる先行宗教批判 三位一体説への警告/比較宗教学の先駆/アラビア語トーラー/イスラームにとっての啓典/神にふさわしくない記述 |
第4章 神秘家とその営み | |
1 |
「タサウウフ」と神秘主義 欲望の克服/タサウウフをどう訳すか |
2 |
教友と禁欲家たち 「埃になりたい」―教友たちの畏怖/預言者のスーフィー性 正統カリフのスーフィー性 「現世を売り飛ばせ」―ハサン・バスリーの自省と禁欲 |
3 |
神への愛から「汎神論」的神観へ 「あなただけで十分」―ラービアの「神への愛」/功利的な信仰の否定 「森羅万象に神の証」―ズンヌーンの「汎神論」的神観 |
4 |
「私が神である」―バスターミーからハッラージュへ 「われに栄光あれ」―バスターミーと神の「一性」/神の「絶対性」の意味 「私は神である」―ハッラージュの“名言”と迫害/「民衆煽動」への |
5 |
神秘主義の「合法化」とは何か サッラージュの見方/ガザーリーの「転向」? 晩年のガザーリーによる法学の位置づけ/学知の分類に占める神秘的知識の地位 「合法化」とは何を指すか |
第5章 「唯一絶対の神」から「遍在する神」へ | |
1 |
なぜ「すべてが一つ」なのか―キリスト教の神概念との比較 イルファーンの形成/イスラームにおけるギリシア哲学 キリスト教的な「愛」の神秘主義/クルアーンという媒介と神秘主義の営為 西欧の研究者から見た一元論的世界観 |
2 |
スフラワルディーの照明哲学 ペルシア文化の影響/すべての始原としての「光」/イブン・スィーナーの哲学の影響 地上と天上との相関/照明哲学と神秘主義 |
3 |
イブン・アラビーと存在一性論 「最大の師」の生涯/テクストと翻訳のあいだ/絶対的「一者」から個々の存在者へ 光と受け手の比喩/神的自己顕現とは何か/汎神論との関係/一神教の究極 |
4 |
モッラー・サドラーの神秘哲学 哲学的思索の潮流/哲学者の経歴/存在と本質/流出論的神秘思想との比較 実体運動説とは何か/モッラー・サドラーの目指したもの |
おわりに 宗教を理解するということ/日常的な実践と内面的な思索 歴史の示すもの/これからのイスラーム/神秘思想と現代 |
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文献選 |
鎌田 繁
著
『イスラームの深層 ―「遍在する神」とは何か―』 シリーズ名: NHKブックス No.1233
NHK出版, 285ページ 19cm
2015年08月
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