何やらわけのわからない現象がおこると、グローバリゼーションがその理由にされる。それは、私たちの視野の外にあって、把握しきれない大きな影響力を及ぼすものとみなされているようである。人類学という、小さな地域や事象を対象として、フィールドワークという方法で研究をおこなう分野においては、とくにその傾向が強いように思われる。本書は、名和克郎さん(東洋文化研究所・准教授)と野林厚志さん(国立民族学博物館・准教授)とのご協力のもとに、私が国立民族学博物館でおこなった「生業と生産の社会的布置」という共同研究会の成果をとりまとめたものである。その前から継続している東洋文化研究所の班研究「生業研究の可能性」が、この共同研究会の母胎となっている。
人類学的フィールドワークという、直接的で、小さい地域研究集団を対象としておこなわれる研究手法は、地球規模で進行しつつあるグローバリゼーションの時代に、はたして有効であるのか?そこに暮らす人びとの〈生きる世界〉をリアルに描くことができるのか?これらは、きわめて重い今日的課題である。グローバリゼーションが経済活動の自由化と政治組織の民主化という地球規模の変容をもたらすのなら、人類学のフィールドワーク中心の微視的な研究手法は、その前に無力なのだろうか。いや、本書はそうではないという解答を確固と提示する。むしろ、フィールドワークが対象としている微細な人びとの生活を追うことは、かえって、グローバリゼーションと呼ばれる現象が、きわめて個別的で変化に富むことを明らかにする。実際のところ、いかなる意味でも、グローバリゼーションはローカルなかたちで立ち現れる。グローバリゼーションという概念は、あくまでもその差違を積分してしまった結果の像を近似するものにすぎないのである。
本書がこの結論を説得的に示しえているのは、各論文の執筆者がたたきあげのフィールド体験豊かな研究者であるからにほかならない。フィールド経験が量的質的に問題あり、それを一見小難しい「理論」でつくろう研究者は、一人もこの論文集の寄稿者に含まれていない。生業や生産という人びとの営みについての接写、グローバリゼーションの破れやほころび、矛盾やボタンのかけ違え、さらには、いまだに徴候的にうかがうことのできる人びとのグローバリゼーションのもたらす平準化への抵抗など、本書はグローバリゼーションをめぐる人類学的研究のラディカルな営みを縦覧するもっとも確かなテキストとなるであろう。
序章 | フィールドワーク、<生きる世界>、グローバリゼーション(松井健) |
第Ⅰ部 「生業/生産」という視座 | |
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第1章 | サラワク・イバン社会総体の生業布置 ―それはいかに語りうるか(内堀基光) |
第2章 | 二重に生きる ―カナダ・イヌイト社会の生業と生産の社会的布置(大村敬一) |
第3章 | ヒマラヤ交易民から成功した先住民族へ ―ランの「生業」と「生産」を巡って(名和克郎) |
第Ⅱ部 生業の変容とその諸契機 | |
第4章 | 土地所有・雑物・喰実畑 ―近世琉球の年貢賦課と百姓の生業形態(豊見山和行) |
第5章 | 台湾原住民族の文化的営為としての狩猟活動(野林厚志) |
第6章 | 生業としての日本農業と集落営農という装置(末原達郎) |
第Ⅲ部 グローバリゼーションの蹉跌 | |
第7章 | 内戦下で人びとはなにを食べていたのか ―南部スーダンにおける生業、市場、人道援助(栗本英世) |
第8章 | アフガニスタンという不幸 ―近代、「前」近代、「反」近代の布置(松井健) |
第Ⅳ部 生業の倒立と〈生きる世界〉 | |
第9章 | アボリジニ・アーティストの誕生 ―先住民工芸品の展開とエージェンシー(窪田幸子) |
第10章 | 生業として、抵抗の拠点としての難民生活(曽我亨) |
第11章 | 生産者と消費者を繋ぐもの ―ベトナム・コーヒーに見る生業と生産の社会的布置(池本幸生) |
あとがき(名和克郎・松井健) |