2011年に出版した本を11年ぶりに増補新装版として出していただきました。新たに3章加えて、11章立てといたしました。この本は、第25回和辻哲郎文化賞を受賞した思い出のある本で、国家と宗教の関係を、中国を中心に考察したものです。新たに加えた3章は、第Ⅳ部に収め、「市民に息づく宗教性」と題しました。関連書籍として、中島隆博・吉見俊哉・佐藤麻貴編『社寺会堂から探る 江戸東京の精神文化』(勁草書房、2020年)を挙げておきたいと思います。
プロローグ 他者たちへの想像力 |
第I部 原初的な共同性をめぐる思考 |
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第1章 小人がもし閒居しなければ──朱熹の思想 |
1 中国思想における公共空間 |
2 「小人閒居して不善をなす」 |
3 悪の場所 |
4 君子の「独」と小人の「独」──「他者を予想する境地」にいる小人 |
5 「誠意」という関門──小人の間の分割 |
6 自ら欺く──君子の場合 |
7 自ら欺く──小人の場合 |
8 「半知半不知」 |
9 君子は小人である──巨悪について |
10 王船山の批判と他人の存在 |
第2章 小人たちの公共空間──明代の思想 |
1 小人の君子化と「知」から「良知」への移行──王陽明 |
2 「無善無悪」と「信」──王龍渓、銭徳洪 |
3 「愚夫愚婦」の「公論」──繆昌期 |
4 代理=代表の空間──黄宗羲 |
5 小人の朋党──欧陽脩、高攀龍 |
6 渦巻きの共同性 |
インタールード1 他者たちを再び結びつける地平──ジャック・デリダの思考 |
1 「絶対的起源の根源的差異」──デリダとレヴィナス |
2 「超越論的歴史性」と〈超越〉 |
3 時間の超越論的エコノミー |
4 返済なき贈与──『時間を与える』 |
5 犠牲のエコノミー、エコノミーの犠牲──『死を与える』 |
6 涙を流す瞬間──『盲者の記憶』 |
7 正義の時間──「複数の純粋な特異性を再び結びつけるだろう」 |
第II部 他者を再定義する仏教のラディカリズム |
第3章 魂を異にするものへの態度──明末の仏教とキリスト教 |
1 「殺生は人のなすことではない」──雲棲袾宏の「戒殺生」 |
2 「殺生を戒める道理などない」──マテオ・リッチによる批判 |
a 魂を異にするもの──人間と動物の差異 |
b 魂のダブル・スタンダード──他人との差異 |
c 他なる人間中心主義と倫理力 |
d 「仁の模範」と魂のエコノミー |
e 肉を喰らうこととその抑制 |
3 〈食べること〉の肯定──李贄と戴震 |
4 〈美味しく食べること〉から〈殺すこと〉へ |
5 殺生は断じて行うべきではない |
6 「忍びざる心」を理解し直 |
第4章 強死せし者と死体の方へ──六朝期の仏教と儒教 |
1 神滅不滅論争──范縝、蕭琛、曹思文 |
a 范縝の形神相即論 |
b 仏教徒の批判 |
2 死者と死体 |
a 木と人、死者と生者 |
b 死体に変じる |
c 死神 |
d 余分な死体 |
3 神の複数性と他者との交わり |
a 神の複数性と一性 |
b 沈約の批判──神の名 |
c 二つの心──心器をめぐって |
d 思慮は他の部分にもやどるのか |
e 他人の心との交渉 |
4 人間の間の区別──形神相即論を超えたイデア的器官 |
5 人間の間の区別を破る──自然なる世界 |
a 神滅の効用 |
b 自然は性による人間の間の区別を破る |
6 強死せし者 |
a 経書に記載された祭祀と鬼神 |
b 蕭琛の批判 |
c 曹思文の批判 |
d 強死の回避──「自然」と「独化」の死/他者との関係における死 |
7 マン-メイド・マス・デス(人の手による大量死) |
第5章 死者を遇する〈倫理〉──仏教と生命倫理 か |
1 現代における生命倫理と仏教 |
2 「自然」と「道徳」 |
3 捨身・布施──臓器移植を容認する仏教的言説 |
4 自己決定 |
5 「死の作法」、道徳化からの切断──臓器移植に対抗する仏教的言説 |
6 死の時間─神滅不滅論争の争点 |
7 臓器移植とカニバリズム |
8 動物を殺してはならない──「戒殺生」の争点 |
9 死者を死者として遇すること |
10 仏教のラディカリズム像力 |
インタールード2 他のものになることの倫理――ジル・ドゥルーズと中国 |
1 生成変化――『千のプラトー』 |
a 近傍と此性の構成――全く違った個体化の様態、そして世界 |
b 他の近傍もまた変化する |
2 独立した個体の間の反自然的な予定調和 |
a 反自然的な共感の統合――『経験論と主体性』 |
b この同じ世界――『襞』 |
3 壁を通り抜ける技法――ドゥルーズにとっての中国 |
a 抽象線に自らを切りつめる |
b 欲望を整序するものとしての中国力 |
4 他なるものに化すこと――『荘子』胡蝶の夢 |
a 胡蝶の夢――他者の立場に立つことはできない |
b 能動性を欠いた肯定による非倫理 |
5 内在の倫理 |
第III部 共生の思想としての儒教の方位 |
第6章 儒教の近代化の行方――中国の新儒家 |
1 現代新儒家の背景 |
2 新儒家の定義力 |
a 宗教的であること |
b 文化と哲学 |
c 正統と合法――「道統」について |
3 最後の儒家か、最後の仏家か――梁漱溟 |
a 『東西文化およびその哲学』――─仏家から儒家へ転向したのか |
b 「最後の仏家」 |
c 梁漱溟と熊十力(一)――「熊十力は儒家に、わたしは仏家に帰属するべきである」 |
4 仏教から儒家思想へ――熊十力 |
a 『新唯識論』と「境識同体不離」 |
b 儒家思想の導入――『原儒』、『乾坤衍』 |
c 梁漱溟と熊十力(二)――「内聖外王の学」の失敗 |
5 仏教の再導入――牟宗三 |
a 熊十力との出会い、梁漱溟との距離 |
b 熊十力と梁漱溟の間で――「新外王」と「曲通」の道 |
c 牟宗三のプログラムと「自覚的な自己否定」 |
d 神妙なる融即――「一心開二門」から「天台円教」へ力 |
6 哲学化された仏教とそれを超えるもの |
第7章 国家のレジティマシーと儒教――現代中国の儒教復興 |
1 国家のレジティマシー |
2 儒教をどう捉えるのか |
3 Civil Religionの系譜学(一)――ジャン=ジャック・ルソー |
4 Civil Religionの系譜学(二)――─ロバート・ベラー |
5 儒教と犠牲の論理 |
6 考えるべき論点 |
第8章 「批判儒教」のために――近代中国・日本における儒教復興 |
1 二つの世俗化概念―― secularizationとlaicization |
2 儒教は宗教なのか(一)――清末から文化大革命まで |
3 儒教は宗教なのか(二)――改革開放以後 |
4 近代日本における宗教と道徳 |
5 人倫の道としての儒教――和辻哲郎 |
6 孔子教と哲学的宗教性――服部宇之吉 |
7 徳教としての儒教――井上哲次郎 |
8 戦前日本における市民宗教の政治的意味 |
9 来るべき「批判儒教」 |
第IV部 市民に息づく宗教性 |
第9章 儒教、近代、市民的スピリチュアリティ |
1 儒教復興 |
2 近代と儒教 |
3 台北孔廟 |
4 原理主義的な儒家国教論と自由主義者のキリスト教的立憲政治論 |
5 台湾と共和国の伝統 |
6 長春と市民的スピリチュアリティ |
おわりに |
第10章 世紀の交の霊魂論――中江兆民、井上円了、南方熊楠 |
はじめに |
1 中江兆民の霊魂論 |
2 井上円了の霊魂論 |
3 南方熊楠の霊魂論 |
4 熊楠と兆民、円了の交差 |
5 熊楠霊魂論の政治性 |
6 熊楠のエコロジー |
7 哲学などは古人の糟粕 |
第11章 ポスト世俗化の時代における市民社会 |
はじめに |
1 重なり合う合意――チャールズ・テイラー |
2 世俗的理性と宗教的理性の間の翻訳――ユルゲン・ハーバーマス |
3 ポスト- デュルケーム的体制 |
4 今日におけるマテオ・リッチ |
5 ローカルな宗教性 |
おわりに |
エピローグ 共生のプラクシス |
註 |
あとがき |
増補新装版へのあとがき |
参考文献 |
事項索引 |
人名索引 |
中島隆博 著 『共生のプラクシス 増補新装版――国家と宗教』
東京大学出版会, 372ページ 2022年5月 ISBN: 978-4-13-010155-4
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