2016年3月24、内藤湖南以前に中国の在地勢力に着目した日本の知識人はどのぐらい存在したのか、湖南の説はどのぐらいの独創性があるのか、湖南の「唐宋変革」論は果たして中国社会の内部の発展と対外関係の両面をうまく融合させたと言えるのか、湖南はどの外国語をどの程度まで出来たのか、「唐宋変革」という言葉を湖南が最初に言い出したのか、湖南の『支那論』や『新支那論』はだれに向けて発した言説だったのか、湖南が「唐宋変革」を着想したヒントはどこにあったのか・・・会場からは様々な質問が飛び交い、東文研らしい熱い議論と活発な意見交換が行われた。
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【日 時】2016年3月24日(木)16:00-17:30
【会 場】東京大学 東洋文化研究所 3階 大会議室
【題 目】辛亥革命につながる「唐宋変革」論 ――内藤湖南のまなざし
【発表者】朱 琳(東洋文化研究所・助教)
【司 会】馬場 紀寿 (東洋文化研究所・准教授)
【使用言語】日本語
【概 要】
日本における東洋史学の創始者の一人として、内藤湖南(1866-1934)は、広く名を知られている。彼の唱えた「唐宋変革、宋代近世」説(唐代と宋代の間にあった大きな歴史的な変化を中世から近世への移行と位置付け、宋代以後を近世と捉える視点)は、宮崎市定(1901-1995)らに受け継がれ、いわゆる京都学派の時代区分として現在でも有力な説となっている。
辛亥革命によって清朝が倒壊した後、混迷した政局のなか、君主制か、それとも共和制か、中国は政体選択という究極的な現実に迫られた。この切実な課題に答えるため、湖南は中国史を踏まえながら、辛亥革命で滅んだ君主独裁政治は宋代に始まり、それ以前は貴族政治の時代であることを明らかにした。そして、宋代以降の社会の各方面における近世的発展のなかで見られた庶民の台頭(「平民主義」)、地方自治の伝統(「郷団組織」)こそが共和制の基盤たり得るとし、一種の「聯邦共和制」をあり得べき政体とした。
本発表では、湖南の「唐宋変革」論がどのように形成されたのか、なぜ湖南がそこまで宋代にこだわったのか、その歴史論と時局論がどのように融合したのか、などの問題について再検討してみたい。
担当:朱