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インド国立博物館にて本研究所所蔵イスラーム建築遺構写真を主題とする写真展「デリーの遺産(Heritage of Delhi)」が開催されました

展覧会の経緯

 2018年11月16日から30日まで、インド国立博物館において「デリーの遺産(Heritage of Delhi)」が開催されました。本写真展では、東洋文化研究所が所蔵する東京大学インド史跡調査団が1959/60年と1961/62年撮影したイスラーム建築遺構写真と、東洋学研究情報センターの機関推進プロジェクトによって2015年と2018年に撮影した遺跡の状況を比較展示するものでした。
 東京大学インド史跡調査団は、山本達郎(団長・現東京大学名誉教授)、荒松雄(副団長・現東京大学名誉教授,歴史学)、月輪時房(現聖心女子大学名誉教授、考古学)、三枝朝四郎(写真撮影)、大島太市(写真測量)の諸氏から構成され,1959~60年、1961~62年の二回にわたって現地調査が実施されました。調査団の目的は、デリーに遺存するスルタナット期(12世紀末~16世紀初頭)イスラーム建築の悉皆調査でした。加えてベンガル、デカン、グジャラート等、地方の重要イスラーム建造物の調査がおこなわれました。インドの都市部では、60年代以後の都市化や開発によって、失われた遺構も多いことから、デリーの中世遺構を網羅的に撮影した本資料は、極めて貴重な存在です。
 なお、これらの遺構の現状を確かめ、資料の価値を明らかにするために、平成27年度東京大学東洋文化研究所附属東洋学研究情報センター公募プロジェクト「共同研究 歴史都市デリーの都市開発と遺跡保存—東京大学インド史跡調査団の再評価からの中世インド建築史から」はじめ、平成28年度推進重点プロジェクト「歴史都市デリーの都市開発と遺跡保存—東京大学インド史蹟調査団HPの改訂と2015年度調査結果のHP立ち上げ」平成29年度推進重点プロジェクト「歴史都市デリーの都市開発と遺跡保存—デリー補充調査および2015年度調査公開の拡充」、平成30年度推進重点プロジェクト「歴史都市デリーの都市開発と遺跡保存—2017年度調査公開の拡充と衛星画像解析による遺構確認」によって、東京大学インド史跡調査団が中世遺構として記述したデリーの385件(『デリー:デリー諸王朝時代の建造物の研究 第1巻』東京大学東洋文化研究所、1967年に記載された物件)の現状を確かめることができました。
 本展示会は、MOSAI(Mombusho Scholars Association of India)が主催した国際会議 “India and Japan: Unearthing lesser-known linkages; 絆”の開催にあたり、東京大学東洋文化研究所の協力によって、インド国立博物館で開催される運びとなりました。60年前の東京大学インド史跡調査団の撮影・記録した遺跡とその現状を知るとともに、デリーの中世遺跡への覚醒を訴えるものでした。
 また、この国立博物館での展示終了ののちには、デリーの国際交流基金のホールにおいて展覧会が開かれる予定です。

(深見 奈緒子)

参照:東京大学東洋文化研究所デジタルアーカイブ インド史跡調査団

展示の様子

展示に関する解説(クリックで詳細情報がご覧いただけます)

 東京大学インド史跡調査団の調査風景を写した写真が入口に飾られ、その後、385件のモニュメントから18件が選ばれ、展示されました。以下18点を順に説明いたします。

 まず、ベガンプル・モスク(M4)は、トゥグルク朝下1327年に建設された新都に、大モスクとして構築されたもので、その建設年代には諸説がありますが、1340年代の建築と推定できます。巨大な中庭の周囲に回廊をめぐらし、西側を礼拝室としますが、礼拝室中央にペルシア起源のイーワーン(アーチ開口広間)をもち、中庭の中軸線上にドームをいただく門を配置することから、ペルシアの影響が強いといわれるモスクです。建物自体はArchaeological Survey of India(ASI)によってモニュメントとして保存されていますが、新旧を比較すると、周囲の都市化に目を見張るものがあります

ヒルキ・モスク(M7)は、フィールーズ・シャー・トゥグルク(1351-88年)の時代に建立された大規模モスクの一つで、ジャハーン・パナーの東壁の近くにあります。べガンプル・モスクと同様にASIによってモニュメントとして保存されていますが、イスラーム教徒が礼拝するという機能は認められず、柵の中にはゴミが散乱し、メンテナンスは行き届いていない状況です。こうした状況は、公的に保存されたモスクや墓建築に共通する現状です。

シャープールジャートのモスク(M10)は、ハルジー朝のシリー城塞(1303年建設)の中に建設されたモスクで、中央にドーム室を持つタイプで、おそらく14世紀後半の建設と思われます。1960年代にもすでに荒廃し、南北の副礼拝室は崩れ去っていました。そのState Department of Archaeologyによって修復され、ドーム室の東ファサードは復元され、様変わりし、モニュメントして保存されています。

チョーサト・カンバー・モスク(M12、64本の柱モスク)はムガル都市シャー・ジャハーナーバードのデリー門(南門)の約800m南西に位置し、いわゆるニューデリーの地域に当たります。2棟のコの字型建築で中庭を包むような建築で、他に類例はありません。現在も地元の人々のモスクとして使われており、西の建物は古い建築を覆う形で改装し、その前面にビニール板の屋根をかけていますが、東の建物は古い建築にそのままスタッコを塗った形です。

ビジャイ・マンディル(O6)はベガンプル・モスク(M4)の近傍に作られた新都ジャハーン・パナーの宮殿域の建築です。14世紀のムスリムの宮殿建築の実例として重要な遺構で、ASIによって保存されています。新旧の違いを見ると、周囲の都市化とともに樹木の増加に気づきます。デリーでは80年代から「緑の都市」を目指し、広い地域を緑化し、低層の都市を実現しました。しかしながら、都市化と樹木は遺構に対して良い影響ばかりをもたらした訳ではありません。ドーム建築には草木がはびこり、その根の力で建物に負荷を与え、崩壊した遺構もあります。なお、古い写真の右上に、のちに紹介するカールー・サライのモスク(M9)が小さく写っていますが、現在は建物に包まれてしまっています。

 ベガンプルの東方のマハル(O21、サライ・シャージー)は、インド史跡調査団はムガル建築の可能性はあるとしながらもサイイド朝かロディ朝の建築とした遺構です。周辺にムガル朝の墓の遺構が集中することから、ASIはムガル朝のジャハンギール時代の遺構とします。屋上の北西部にたつ塔の内装にはムガル朝に特有の様式が使われてはいますが、全体構成や位置等からはスルタナット期の建築とすることも可能です。新旧を比べるとASIの登録遺跡として修理が進んだ点と、周囲の都市化が指摘できます。なお、古い写真の左上にはベガンプル・モスク(M4)とビジャイ・マンディル(O6)が小さく写り、昔は、遺構を遠くから確認できたことがわかります。

シェイフプルの12本柱墓建築(T114)は、本来はイスラーム教徒の墓建築でしたが、現在はシーク教のグルドワラとして使われています。墓建築はコンパクトで転用しやすいので、385件中に墓建築は142件を閉めるのですが、うち6件が、ヒンドゥー寺院などの他の宗教建築として使われています。この建築も、周囲を壁で囲み、室内には煌びやかな装飾がなされていました。22件の墓建築はすでに失われてしまっているので、このように遺構を活用する方法も、遺構としての持続する可能性の一つかもしれません。

スルターン・ガーリーのモスク(M15)はデリーの南西部にある遺構で、近くにデリーでもっとも古いイスラームの墓建築とされる13世紀建立のスルターン・ガーリー(T1)があり、双方ともにASIの登録文化財となっています。このモスクは、本来間口5間奥行3間で、その建築様式からトゥグルク朝期に建設されたと推察されます。現在は、一帯の荒野がそのまま公園化され、緑化によって遺跡が破壊に至る一例を示しています。

ムニールカのモスク(M 20)はハウズ・ハースの西側の古くからのムニールカ部落の中央に位置するモスクで、インド史跡調査団はトゥグルク朝期の建立と推察しています。中央にドームをもち両側に側室をもつタイプなのですが、60年代にもすでに一部は住宅として使われていました。現在、中央のドームの下にはセノタフが置かれ、北翼は住宅に使われていますが、南翼は新たな建物の中に取り込まれてしまい、存在の有無は不明です。古い写真は東から、新たな写真は北翼の屋上から撮影したものです。

カダム・シャリーフ(聖跡)のモスク(M 21)は、シャージャハーナーバードの西外側に位置します。中世の囲郭集落(O9)の中に、モスク(M 21)と預言者ムハンマドの足跡を祀る墓建築(T 99)が建設された貴重な遺構でした。モスクの屋上にのるチャトリ(8本柱の建築、本来壁はなく吹き放し)は囲郭集落の城壁の上に載る形を取っていました。残念ながら、数年前に新たなモスクを建設するために取り壊され、現在はその敷地のみが残っています。囲郭城壁もほとんどが都市化の中に埋もれていますが、墓建築だけは現存し、イスラームの宗教建築として機能しています。

シェイフプルのモスク(M 47)はベガンプル地区と聖者廟を中心としたチラーグ・デリー部落を結ぶ旧道に面しています。インド史跡調査団はその様式から15世紀の建築としていますが、古いモスクは壊され、3階建ての新たなモスクが建設されていました。ただし、その地下室には、ミフラーブ部分の壁の痕跡が残っていました。

シェイフプルのハンマーム (公衆浴場、O 51)はシェイフプルのモスク(M 47)の北西にかつては存在していました。アウターリングロードのすぐ南に当たるため、住宅地整備にあたり、公園化されました。南アジアにおけるスチームを利用したハンマームの遺構は珍しく、失われてしまったことが惜しまれます。フォーマルな都市計画においても、90年代以前は、遺跡を残す道が取られていませんでした。

カールー・サライのモスク(M9)は、14世紀後半に建立され、古くは間口7間奥行3間の比較的大きなモスクで、ミフラーブの周辺や天井には漆喰装飾が残っていました。現在は個人所有の住宅となって、内部に入ることはできません。周囲には高い建物がそびえていますが、遺構自体は残っています。住民の住む権利も考えた上で、中世の貴重な遺構として何らかの保存の手だてが望まれます。

ニザムウッディン部落の周壁(O9)は、ニザムウッディン・ダルガー(聖者廟)の南の囲郭集落で、一辺100mほどの正方形の区域が壁で囲まれ、その四隅にボルジュ(円形の突出部)を備えていました。現在ではほとんどが建物の中に組み込まれてしまい、その全容をたどることは難しい状況です。しかしながら、北辺の中央部の門を確認することができました。インフォーマルな都市化によって、遺構が都市の中に埋もれていく例を示しています。

シェイフ・ウスマーン廟(T11)は、ジャハーン・パナーの内部にあたり、ヒルキ・モスク(M7)の北東に当たります。四角い平面にドームをかけた墓建築ですが、14世紀後半の実例として重要です。60年代には荒野の中に存在しましたが、今ではグリッド状の道路網を持つ住宅地の中に取り込まれてしまいました。2015年の調査では見つけることはできませんでしたが、2018年の調査で、ビルの間で今なお、聖者廟として崇敬を集めている状況に行き着くことができました。地面が1mほど上昇し、建物には内外ともにかなり分厚い塗装がなされていました。

ムジャヒドプルの墓建築(T41)はロディ朝の建築で、四面を開口し、東面に出窓を持つことや、入り口の両脇にフルーティングのある塔を持つことで特徴的です。当時は部落の外縁部に位置していましたが、現在では中層の住宅地内に取り込まれてしまいました。東面の出窓は細い路地との間にかろうじて残っていますが、南面、北面は新築建築の内部に取り込まれてしまいました。2015年にASIによって修復がなされました。

ラド・サライの墓建築(T60)はロディ朝の建築で、西側をミフラーブとし、他3面を開口し、内部ドームには星形の交差文様が描かれています。60年代からすでに納屋として使われていましたが、現在でも同様な状況で、メインテナンスはなされていません。現在、南側は広場となっていますが、そのほかの3面には建物が接しています。

ムバラク・シャー・サイイドの墓建築(T77)は、サイイド朝の為政者を葬る建築で、八角形の墓室に周廊をめぐらしていて、スルタナット期のデリーには4件の類例があります。本来は、この建物を中心にムバラクプルという集落が作られました。大モスク(M32)も作られ、現存しますが、ムバラクプルの門や囲壁を確認することはできませんでした。ここ60年間に古い集落が高層化していく様相がわかります。

中世遺構の現状

 インド史跡調査団が中世の建造物として記録した385件の建造物のうち、2018年にはその30%の113件はすでに消失していました。また、遺跡として認識されず、壊れるままにまかせているものもあり、いわゆる公的なモニュメントとして保存されているものは、35%の135件です。そのほかは、宗教施設として利用され、あるいは私的な住宅や物置に使われていました。
 他の都市と比較しても、13世紀から16世紀初頭までの建造物が385も存在するというという点は、稀なことです。しかしながら、ここ60年間にはその重要性が軽視されていた傾向は否めません。イスラームの遺跡であるという点も、インドでの保存は難易度が高いのかもしれません。昨今、その状況は加速しています。
 ただし、一度喪失してしまうと、元に戻すことはできませんので、遺跡を次の世代へと継承していくことは重要な任務と思われます。都市化と遺産という問題の解決は非常に難しいですが、遺跡をどのように利用し、現代生活とどのようにつなげていくのかという点を考えていくことが、現代の課題と思われます。
 インド史跡調査団の遺産は、中世インドのイスラーム建築史の基礎資料となるばかりではなく、ここ60年間の変容の様相や、都市における遺産の問題を考えることにも役立つ、重要な資料です。この存在を、展覧会を開くことによって、より多くのインドの人々が気づいていただけるようにと願っています。

(文責:深見 奈緒子)



登録種別:研究活動記録
登録日時:MonNov2611:46:172018
登録者 :桝屋・藤岡
掲載期間:20181127 - 20190228
当日期間:20181116 - 20181130