本書は、後藤末雄氏による『乾隆帝伝』(1942)の復刻版です。乾隆帝は、約300年という長期間にわたって中国支配を維持した清朝の歴代皇帝のなかでも、最盛期を実現しました。その強力な支配力は、軍事と文化の両面を貫く形で発揮されたといえます。たとえば、本書で詳しく語られるごとく、乾隆帝は十回におよぶ外征によって版図を拡大しつつ、その征服過程を「得勝図」に描かせ、さらに新たな領土を加えた全国地図を制作させました。
こうした「得勝図」や全国地図の制作に駆り出されたのが、当時清朝宮廷に仕えたカトリック宣教師、とりわけイエズス会の宣教師です。彼らが活動した明末~清代中期、キリスト教布教は容認と禁止のあいだを大きく揺れ動き、各地方では多くの教案が発生しました。清朝宮廷に仕える宣教師は、キリスト教布教への公許を獲得するため、さまざまな工作を行う一方で、あるいはその実現のために、乾隆帝による文化事業を支え続けました。つまり彼らは清朝の内と外を往復しながら、あるいはその境界で生を営んだといえます。
こうしたきわめて特殊な境遇のなかで、イエズス会宣教師が紡ぎ出した報告をもとに、彼らの眼からみた乾隆帝像を再現したのが、本書『乾隆帝伝』です。従来、イエズス会宣教師は中国をひたすら賛美し、理想化したと捉えられてきたのですが、本書から伝わってくるのは、ある種の測りがたさと恐ろしさを秘めた乾隆帝の姿に他なりません。ぜひ多くの方々に本書をお手にとっていただき、宣教師と乾隆帝とのあいだで繰り広げられる歴史/物語を味わっていただきたいと思います。
『乾隆帝伝』 | |
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序 | |
解説 | |
(Ⅰ) | 北京の宣教師とその会堂 |
(Ⅱ) | 観象台と円明園 |
(Ⅲ) | 第一次迫害の経過 ――乾隆元年 1736―― |
(Ⅳ) | 第二次迫害の経過 ――乾隆二年 1737―― |
(Ⅴ) | 第三次迫害の経過 ――乾隆十一年 1746―― |
(Ⅵ) | 円明園に噴水の構築 ――乾隆十二年 1747―― |
(Ⅶ) | 模型芝居の献上と器械人形の製作 ――乾隆十六年 1751―― |
(Ⅷ) | フランス耶蘇会士アッチレの絵画奉仕と官禄拝辞 ――乾隆十九年 1754―― |
(Ⅸ) | 得勝図の製作とその西送 ――乾隆三十年 1765―― |
(Ⅹ) | 「坤輿全図の作製」 ――乾隆三十二年 1767―― |
(Ⅺ) | 得勝図の試刷延期 ――乾隆三十五年 1770―― |
(Ⅻ) | 「皇朝中外壱統輿図」の作製 ――乾隆三十七年 1772―― |
(ⅩⅢ) | パンシの尊像写生 ――乾隆三十八年 1773―― |
(ⅩⅣ) | 乾隆帝とブノワとの問答 ――乾隆三十八年 1773―― |
(ⅩⅤ) | 望遠鏡の説明と排気機の御前実験 ――乾隆三十八年 1773―― |
(ⅩⅥ) | 耶蘇会の廃止と北京の耶蘇会士 ――乾隆三十九年 1774―― |
(ⅩⅦ) | 北堂の資産分配に関する紛議 ――乾隆三十九年 1774―― |
(ⅩⅧ) | 南堂の失火と乾隆帝の態度 ――乾隆四十年 1775―― |
(ⅩⅨ) | 北京司教の叙任問題と乾隆帝の干渉 ――乾隆四十四年 1779―― |
(ⅩⅩ) | ラザリスト会、耶蘇会と交代す ――乾隆五十年 1785―― |
結論 | |
参照文献 | |
『円明園の研究』 | |
(Ⅰ) | 円明園の名称と増築工事の完成 |
(Ⅱ) | 円明園の風光と御製詩及び「四十景詩」 |
(Ⅲ) | 円明園に関するアッチレの記述 |
(Ⅳ) | 円明園に西洋楼と噴水の築造 |
(Ⅴ) | 円明園の掠奪と焼毀 |
(Ⅵ) | 結語 |
解題 | |
校注 | |
あとがき |