2018年1月18日(木)午後、2017年度第6回定例研究会が大会議室にて開催され、松田康博教授(東京大学東洋文化研究所)による「軍事的対峙時期の中台関係:蔣介石による大陸反攻の起源・計画・終焉」と題する研究報告が行われた。松田教授は、博士論文(『台湾における一党独裁の成立』〔慶應義塾大学出版会、2006〕)の延長線上にある研究として、蔣介石が主導した大陸反攻政策の実証研究を進めている。
従来の学説では、米国中心の史観に基づき、中国が台湾を攻撃し、米国が巻き込まれる可能性があるときのみ「危機」としてカウントされたが、1962年の大陸反攻未遂のように、台湾側が攻めていくことも米中戦争につながる可能性があった。
大陸反攻作戦は、しばしば台湾本土派から台湾を独裁的に統治するための方便(=虚偽)の説明にすぎないという言説が提起されているが、松田教授は、蔣介石の革命人生の一貫性から、少なくとも台湾時期の前半においては真剣に大陸反攻を検討していたと考えている。
朝鮮戦争を背景に、(中国共産党がやった)北方から攻め下る「中国人民解放戦争型」である「三七五計画」が構想されたが、朝鮮戦争の休戦により北方からの上陸反攻が不可能となった。さらに1954-55、58に浙江省および福建省沿岸で「台湾海峡危機」が起こり、浙江省沿岸諸島が「解放」されたことにより、華東からの反攻が不可能となった。このことにより、華北、華東、華南から柔軟に上陸地点を選んで反攻する「五五建設計画」へと変化していった。
これらの計画の中で、白団(日本人軍事顧問団)が作成した「光作戦計画」は、軍内教育用であったが、その後の大陸反攻計画作成過程に大きな影響を与えた。これは華南地方に上陸反攻して、北上する「ノルマンディー+北伐型」 であった。その拠点が金門と馬祖であり、後の計画はほとんど「光作戦計画」を発展させたものである。
1962年から65年は、蔣介石が中国の大躍進政策による混乱に乗じて真剣に大陸反攻を試した時期である。しかし、結局、この時、米国のケネディ政権は、1962年に正面から反対するのではなく、引き延ばしつつ巧妙に蔣介石を反攻断念に追い込んだ。65年に蔣介石は米国に頼らない単独反攻の可能性を探ったが、結局2度の海戦で惨敗し、「積極的反攻」をあきらめざるを得なかった。
1965年10月以降、蔣介石はいわゆる「消極的反攻」または「待機(機会を待つという意味)反攻」へと転換した。その後、文化大革命やベトナム戦争に乗じて広西から反攻を試みたが、動員のレベルは低く、現実味はなかった。最後に蔣介石はソ連との協力による大陸反攻を検討したが、1969年の中ソ国境紛争時期をピークとして、71年の米中接近によりこの構想は完全に瓦解した。それ以降、大陸反攻は単なるスローガンとなっていったのである。
このように、蔣介石の大陸反攻政策は、時期や条件により虚実が重なりながら段階的にフェードアウトしていったといえる。
報告後、コメンテーターの清水特任准教授が、先行研究では蔣介石が戦後に台湾へ渡ってからの時期を研究したものが多いが、戦前からの連続性の視点が松田発表の貢献である、ただし、台湾のように、もはやこれ以上逃げる場所がないまで追い込まれた時、戦略、戦術に変化がなかったのか、という観点を指摘した。また、大陸反攻を決定するのは蔣介石個人レベルか、政府か、軍隊か、どのようにレベルで観察すればよいのか、などの問題も指摘された。
フロアからは、蔣介石日記の使用方法について議論があった。蔣介石は日記で感じたことを書くが、実際には直接指示を下さないことがある。現場の人間も、指示を受けていないため本気で動いていないがあり、注意が必要であることが指摘された。また、ビルマ、タイとの国境で動いていた大陸反攻の策動を、本報告にある正面戦場との関係でどのように考えるかという問題も議論された。
約35名の参加者があり、報告に続いて蔣介石の政策過程における権威と実質的な影響力を巡って活発な議論が展開された。
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日 時: 2018年1月18日(木)14:00-16:00
会 場: 東京大学 東洋文化研究所 3階 大会議室
題 目: 軍事的対峙時期の中台関係:蔣介石による大陸反攻の起源・計画・終焉
発表者: 松田 康博(東洋文化研究所・教授)
司 会: 園田 茂人(東洋文化研究所・教授)
コメンテーター: 清水 麗(東洋文化研究所・特任准教授)
使用言語:日本語
担当:松田