2026年4月28日、東京大学東洋文化研究所にて、東文研セミナー「日本のグランド・ストラテジー:不確実な世界における『境界国家』」が開催された。本セミナーは、本年3月にオックスフォード大学出版局より刊行された Japan's Grand Strategy: Liminal Power in an Uncertain World の出版を契機として企画されたものであり、著者である片田さおり南カリフォルニア大学教授および古賀慶シンガポール南洋理工大学准教授が報告を行った。討論者として、日本外交史研究の第一人者である井上正也慶應義塾大学教授を迎え、佐橋亮東京大学東洋文化研究所教授が司会を務めるとともに討論にも参加した。セミナーはハイブリッド形式で実施され、対面参加者約50名、オンライン参加者約120名と、国内外から高い関心が寄せられた。
片田教授と古賀准教授は冒頭、グランド・ストラテジーを「利用可能な資源の範囲内で多様な手段を用い、国家目標を達成するための計画と実践」と定義し、グランド・ストラテジーは超大国に限られたものではなく、制約の中にある中小国にも主体的に形成され得る点を強調した。さらに、日本の戦略を軍事・経済・外交を統合した包括的枠組みとして捉える必要性を提示した。その上で、日本を「境界国家(Liminal Power)」と位置づけ、その中間的な能力・ステータス・アイデンティティが戦略形成に与える影響を理論的に整理するとともに、歴史的制度論を用いて経路依存と戦略転換のメカニズムを説明した。
続いて両教授は、明治期から戦間期、冷戦期、ポスト冷戦期に至る歴史的展開をたどり、日本のグランド・ストラテジーが外部ショックと国内政治環境の相互作用の中で変容してきた過程を論じた。とりわけ、各時代において外圧や国際秩序の変化が指導者の選択にどのような影響を与えたのかを具体的に示した。その上でポスト冷戦期には、中国の台頭や米国の関与低下、国際公共財の不足といった要因を背景に、「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」を中核とする新たな戦略が形成されたとし、地域主義(メガFTA)、海洋安全保障、国際公共財の提供を通じて日本が秩序形成に積極的役割を果たしている点を強調した。
討論者の井上教授は、「境界国家」という概念を用いて日本外交を描き出した点や、歴史的制度論による分析を通じてグランド・ストラテジー理論を精緻化した点などを高く評価した上で、主に次の二点を提起した。第一に、「リミナリティ(境界性)」が日本の多様な戦略選択を可能にする一方で、それ自体が個別のグランド・ストラテジー形成の直接的要因であるのかについては、因果関係の精査が必要であると指摘した。第二に、1920年代の幣原外交を独立した新たなグランド・ストラテジーとして位置づける本書の整理に対し、近年の研究動向を踏まえれば、田中外交との断絶よりも満洲権益確保という共通目標の継続性に注目すべきであり、日本外交内部の戦略的対立を過度に強調する解釈には再検討の余地があると論じた。
続いて佐橋教授は、第一に、「境界国家」や「リミナリティ」という概念について、それ自体は個別のグランド・ストラテジーを説明する変数というよりも、クリティカル・ジャンクチャーを経てもなお持続する日本外交の共通的特徴として理解すべきではないかと問題提起した。その上で、軍事資源や国際的地位、知的帰属性などの要素を踏まえつつ、「境界国家性」が具体的に何を意味するのかについて、より精緻な概念化が必要であると指摘した。第二に、ポスト冷戦期日本外交を一括りに捉える本書の整理に対し、実際には小泉政権期や民主党政権初期と第二次安倍政権期との間には戦略認識や外交手法に明確な差異が存在すると論じた。さらに、第二次安倍政権以降の連続性と変化、さらには今後の政権交代が新たなクリティカル・ジャンクチャーとなりうる可能性についても検討の余地があると指摘した。
質疑応答では、日本に主体的かつ一貫したグランド・ストラテジーが存在したのかを中心に、戦後日本における国家戦略の担い手、対米従属と自立の問題、経済成長を戦略的成果とみなすことの妥当性などが主要な論点として提起された。これに対し片田教授と古賀准教授は、グランド・ストラテジーの成功・失敗といった価値判断を下すことよりも、その存在の有無や形成・制度化の過程に着目することが本研究の趣旨であると強調した。そのうえで、日本のグランド・ストラテジーは明示的な青写真というよりも、与えられた国際環境の中で形成・蓄積された適応戦略として存在してきたと説明した。さらに、吉田ドクトリンは当初は偶発的な選択に近かったものの、その後の制度化と経路依存を通じて持続するグランド・ストラテジーへと発展したと整理した。
日時:2026年4月28日(火)14:00〜16:00
会場:東京大学東洋文化研究所 3階大会議室(対面)および Zoomウェビナー(ハイブリッド開催)
使用言語:日本語
報告者:片田さおり南カリフォルニア大学教授・古賀慶シンガポール南洋理工大学准教授
討論者:井上正也 慶応義塾大学法学部教授
司会討論:佐橋亮 東京大学東洋文化研究所教授
主催:
東京大学東洋文化研究所
東京大学未来ビジョン研究センター安全保障研究ユニット
JSPS科研費「東アジア国際秩序の歴史的形成過程:非西洋国際関係理論と地域研究の接合」