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東文研シンポジウム「砂漠の探究者」を探して―女性たちと百年」第七回研究会が開催されました

報告

  本研究会は20世紀初頭に女性やジェンダーを論じた人々に注目し、その著作や活動、生き様を知ることで、当時何が問題となっていたのか、その後100年の間に何が変わり、何が変わらなかったのかを考えることを目指して開催されるものである。
  前半部では、木原氏がライラ・アハメド著『イスラームにおける女性とジェンダー』の第9章「最初のフェミニスト」および第10章「さまざまな声」の内容を要約。エジプト近代史において「最初のフェミニスト」と称され精力的な執筆活動を行ったマラク・ヒフニー・ナースィフをはじめとする、女性の知的向上を目指すための組織設立など1930年代までに行われたさまざまな活動を取り上げた。その中で、中産階級の上および上流階級主導の社会の世俗化および西洋化を支持する方向性(ホダー・シャアラーウィー等)と、土地固有のイスラーム言説の中で女性の主体性を主張する方向性(ザイナブ・ガザーリー等)の2つに分かれたことを確認。ヴェール問題を巡っても、前者は「後進性の象徴」とみなし着用廃止を支持する一方、後者は「イスラーム社会で女性解放について語ること自体誤りだ」という立場を示した。他方ナースィフが、「ヴェールが自由の希求や知識追求の妨害要因とみなす西洋の考え方を鵜呑みにすることは賢明でない」としつつ、「ヴェールの議論よりも女性に教育を与え、女性達自身に国のための良いことを選択するのが重要」とする立場を示した点も確認した。
  その上で木原氏は、(1)シャアラーウィーが、ヴェールを「後進性の象徴」とみなす仏人フェミニストのユージェニー・ルブランに影響を受けたが、フェミニズム思想の内部で欧州人とエジプト人の女性の差別化が図られていたのか、また(2)エジプトのフェミニズムが中流の上および上流階級の出身者に主導されたとしたら、それに当てはまらない中流以下や非ムスリムの立場はどのようなものであったのかという疑問点を提示した。
  これに対し、コメンテーターの後藤氏は、まず1826年の男子学生の仏留学から始まるエジプト近代におけるジェンダーの歴史を年表で示した。1900年のカーシム・アミーンの『女性の解放』出版以前にも1890年代にシリア地方キリスト教徒出身者による女性雑誌の刊行が存在したこと、1908年のエジプト大学設立にともなう女学生の教育参加、その後の複数のイデオロギー潮流に分化した問題について指摘。その上でナースィフが、宗教的、民族的にも極端な立場に固執することなく、「自身の観察と経験、そして多種多様な女性たちの経験から判断する」という経験主義的、実践主義的な姿勢を貫いた点で、後世の研究者の研究意欲をかき立てる魅力的な思想家であったと、後藤氏は強調した。
  以上の発表を踏まえ、研究会出席者の間で百家争鳴の議論が繰り広げられた。とりわけ、(1)フェミニズムという言葉は英国でも1910年代に使われた始めたが、アラビア語でどのように使われ始めたのかという問題、(2)単線的な進歩主義史観が西洋のフェミニストと西洋化志向のエジプト人エリート女性に共有され、オリエンタリズム的な言説が再生産される一方、イスラーム的な価値体系を内面化している多数の人々が対抗言説を求めるようになるといった問題、それに関連して(3)イスラームを生の規範としている女性に対する押しつけの「解放」が抱えている諸課題、(4)ナースィフが全てのイスラームの枠組みで捉えるのではなく、家父長制をそれ固有の問題として分析しようとした点、(5)当時のフェミニズム思想が、いずれのイデオロギー的潮流にあろうとも、反植民地主義という精神基盤を共有していた点、(6)女性解放論が「良妻賢母論」に還元されてしまったのか否かという問題、(7)家父長制はイスラーム以前に遡るものであるが、クルアーン成立あるいはその後のイスラームの歴史の中で、男尊女卑的な教説や慣習として規範化されていったという問題、(8)『イスラームにおける女性とジェンダー』の作者アハメドが、20世紀以降の言説分析については近代主義的な立場を示すようになった点、それに関連して(9)アハメドが同著で設定した諸論客への理解が、後続の研究に無批判に引き継がれ、諸論客の原著との直接的な対話なしに議論されているといった問題が取り上げられた。
  後半部では松尾氏がオスマン帝国近代(アブデュルハミト2世時代、1876-1909)の女性雑誌の投稿欄や読者層に関する分析報告を行った。アブデュルハミト2世期は専制政治時代として知られているが、政治的言論には厳しい検閲が強いられた一方で、新聞・雑誌類の創刊が相次ぎ、言論・出版は活発化した。1859年にイスタンブルで女子中学校が開設された後、1868年には『婦人版進歩』が創刊され、都市部のムスリム女性が匿名で投稿し、家庭教育の重要性を説くと共に、潜在的な女性読者層との交流が観察された。その後、婦人向け雑誌・新聞は、1880年に『家族』、1887年に『花園』、1895年に『婦人専門新聞』と紆余曲折を経ながらも発展し、女性の教育や知識向上に貢献した。特に『婦人専門新聞』は、政府広報や慈善活動に加え、連載小説や詩といった文学、小話やパズルといった娯楽、健康・衛生問題、一般ニュースやファッションにいたるまで幅広い話題を提供。また米国の女子高生の将来進路希望についても紹介し、良妻賢母論ではなく未だ実現されない女子高等教育に必要性をも説いた。その上で、松尾氏は、こうした新聞・雑誌が「編集者、読者の双方が参加する新たな言論と知識・情報の共有の場を提供」し、「女性相互の連帯を促す結節点」となったと強調した。
  これに対し、コメンテーターの山崎氏は、イランでは19世紀前半にごく少数の女性による執筆活動が始まったが、エリート層主導の女性団体設立や女性誌の発行は1900年代後半になってやっと活発化したと指摘。さらに1920年代にレザー・シャー体制がトルコのアタトゥルク改革を模倣し、教育・司法分野などの領域で世俗化を図ったが、シーア派ウラマー勢力の強固な反対により、世俗化は徹底されなかった。カージャール朝の置かれた地政学的な状況や、オスマン帝国やエジプトと比べて停滞気味であった経済発展、政府の権威や統率力の低さといった複数の要因により、イランの女性解放運動はトルコのそれに比べて40年ほど遅れていた点を、山崎氏は強調した。
  これを受け、研究会参加者の間では、特にオスマン・トルコやエジプト、イランの女性解放運動が西洋との垂直的な関係性の中で活発化した一方、同じイスラーム諸国間の地域的、水平的な連帯として盛り上がることはなかった点について考察された。少なくとも立憲主義や議会主義といった男性主導による政治改革論や政治ジャーナリズムにおいてはトルコとエジプト、イランの間での「時差」は10年程度で小さかったにもかかわらず、何故女性解放運動の場合は、これら地域間で時差が開いたのか。これについては今後も議論の焦点とすることが確認された。
  包括的な展望を示している『イスラームにおける女性とジェンダー』を題材に、各専門家による自由闊達な議論が行われ、刺激的な一日であった。とはいえ、今回登場したアラブの初期フェミニストについて、彼女ら自身の言葉がさほど引用されることはなかったようにも思えた。今後は原著との格闘の中で、和解と矛盾に満ちた彼女らの生々しい思考の軌跡を明らかにし、研究を蓄積していく必要性も感じた。
(報告:岡崎弘樹[中部大学])

当日の様子

開催情報

日時:2018年3月10日(土)13:30-17:30(開場13:00)

会場:東京大学 東洋文化研究所 三階大会議室

【プログラム】
13:30-15:00
1.読書会
『イスラームにおける女性とジェンダー』
第3部「新たな言説」
第9章 最初のフェミニスト、第10章 さまざまの声
レジュメ担当:木原悠氏(お茶の水女子大学・院)
コメント:後藤絵美(東京大学)

15:30-17:00
2.報告
松尾有里子氏(東京大学)「オスマン帝国近代の女性雑誌―投稿欄に見る読者層の変遷―」
アブデュルハミト2世時代(1876 - 1909)に出版された複数の女性誌の投稿欄を紹介し、その内容から読者層を分析し彼女たちがどのような目的でこの欄を利用していたのかを考えます。
コメント:山﨑和美氏(横浜市立大学)

17:00-17:30
3. 今後の活動内容と出版物について

主催:東京大学日本・アジアに関する教育研究ネットワーク、中東映画研究会
   公募研究会:「砂漠の探究者」を探して―女性たちと百年(代表:岡真理、事務局:後藤絵美)
   http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~nagasawa/groups/sabaku.html

共催:科研基盤C「近代イランにおける女性教育の推進:イスラームと西洋近代の相克」(代表:山﨑和美)
   科研基盤C「オスマン帝国近世~近代における社会変容とイスラム知識人(ウラマー)名望家層の成立」(代表:松尾有里子)

担当:長沢



登録種別:研究活動記録
登録日時:ThuMar2213:34:332018
登録者 :長沢・後藤・藤岡
掲載期間:20180310 - 20180622
当日期間:20180310 - 20180310