大川は、豊かな自然を育んでいる。しかしその川の豊かさは、偶然に生み出されたものではない。また「エコロジー」という思想で、自然というものに本質的な価値を認めた上で、意図的に保護されてきたものでもない。それは、沿岸住民の長い年月にわたる生活のなかで、濃密な「使う」という行為を通じて形作られてきた豊かさなのである。
この「使う」という行為は、その行為を続けるための利用の仕組みや世界観によって支えられてきた。その仕組みや世界観は、川とともに暮らす生活者以外の眼には見えにくいが、確かにこの川を包み込んで沿岸住民の行動を律している。大川では秋口から鮭漁が行われる。集落ごとに川を厳密に「漁場区」に分け、さらに集落内で個人の漁場に区分けし、入札や籤引きで個人に配分し鮭漁を行う。かつては、入札で集まった費用は集落の自治運営費に充てられていた。そのため、鮭と川は集落に帰属する共有の財産として考えられていた。そのような「みんなのもの」として管理する社会的な仕組みが、大川の豊かさを生み出してきたのである。
さらに、そこには眼に見えない精神世界も広がっていた。たとえば、鮭を捕った瞬間、鮭漁師たちは、鮭の頭を棒で叩いて絶命させる。それを見た都会人は一瞬ひやりとする残酷さを感じとるかもしれない。しかしその感覚が、生活のなかで自然と対峙する必要のない人間の偏った感覚であることに気がつかなければならない。それは単に動物を殺しているのではないのである。鮭漁師は、鮭の頭を叩くときにエビス様という神の名前を唱えるものだといわれている。そして「鮭は各家のエビス様に供えられるために川を溯ってくる」と語られる。捕られた鮭は、漁小屋のエビス様の神棚に供えられ、次いで家のエビス様の神棚に供えられる。それが終わって、ようやく人びとの食べ物になるのである。大川の鮭漁は単なる経済活動としてあったのではなく、それ自体が神との交流だった。
こういう眼に見えない社会的仕組みや精神世界は、昔は日本の各地に見られた普通の仕組みや世界であった。そしてそれが、生活と密着した自然の豊かさを支えていた。しかし、現在、そのような仕組みや世界は眼に見えないだけではなく、本当に見ることができなくなりつつある。かつて人びとの生活を支え、そして人びとを喜ばせ、楽しませてきた自然と人間との深い関係性。そのような関係性を描いたこの映像は、「いま」を生きる私たちの自然との交わり方に内省を迫るものである。
(菅豊)
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監修:菅豊(東京大学東洋文化研究所)
企画・製作・演出:菊池文代 前島典彦
撮影:前島典彦 山谷明彦 高橋秀治 長田浩一
編集:長田浩一
イラスト:米丸晋司
タイトル:小林一
製作:株式会社 周
情報:2013年/カラー/DVCAM/スタンダード/126分
上映日::5月16日(木) 13:00- , 15:40 - , 18:20 -
上映館::オーディトリウム渋谷 (info@a-shibuya.jp, TEL: 03-6809-0538)