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安冨歩(あゆみ)教授の著書『もう東大話法にはだまされない』の韓国語版が刊行されました

  2018年11月、東洋文化研究所の安冨歩(あゆみ)教授の著書『もう東大話法にはだまされない』の韓国語版(『不思議な国のエリート』)が、韓国のミンドゥレ(タンポポという意味)出版社(発行人:Hyun Byung-ho氏)から正式に刊行された。訳者は以前、同教授の『誰が星の王子さまを殺したのか』を訳したPark Solbaro氏。
  1998年創業したミンドゥレは「新しい教育の在り方」といった代案教育(Alternative Education, Free Schooling)を中心として取り上げた単行本を多数出しており、今年で創刊20周年を迎える隔月刊誌「ミンドゥレ」でも韓国内に多くの読者層を持っている。代案教育業界ではメジャーなものとして位置づけられている隔月刊誌「ミンドゥレ」は、教育の在り方に対する色々な人々の多種多様な想像力をぶつけ合う「場」としての役割を果たしてきた。また、出版社の陣取っている建物の一部を「空間ミンドゥレ」という名前のオルタナティブ・スクールの現場としても活用している。 ミンドゥレ出版社が安冨教授の本を出したのは6月の『誰が星の王子さまを殺したのか』出版以来、今回が2冊目である。同出版社は今後、安冨教授の複雑系を研究した著書の『複雑さを生きる』などに注目し出版を検討している。これからの韓国社会に安冨という「未発掘の知性」を積極的に広める意向を見せている。

以下、発行人のHyun Byung-ho氏が書いた韓国語版、『不思議な国のエリート』の発行人の辞を翻訳・転載しておく。

「不思議な国のエリートたち」

  保守派全国紙『朝鮮日報』の2018年9月8日付の記事は「昨日のエリートが、今日はマフィア扱いされている」と、いわゆる「エリート」のことをマフィアと見做さないよう訴えた。これは、守旧派エリートと革新的政府の間に横たわる対立の反映である。この記事は、ムン政権が進める原子力ムラの腐敗の摘発を、「エリートへの戦争」と見做して、妨害しようとしている。また、「族閥私学(家族親族が支配する私立大学)」の問題の摘発を、教育業界の全体をマフィアとして看做していると、陰謀扱いする。

  既成のマスコミ、すなわち、「朝中東」(韓国の保守系の全国紙の朝鮮日報、中央日報、東亜日報の略)、「ハン京オ」(韓国の革新系の全国及びネット紙のハンギョレ、京郷新聞、オーマイ・ニュースの略)といったメディア・エリートの典型的話法は、「フレーミング作戦」である。彼らは事実の報道に対して歪んだ見方を当てはめることで、読者・視聴者を操作する。

  しかし、もうこれ以上彼らの戦略はかつてのようには通用しなくなった。SNSという武器を手に取った大衆は、「エリート・ゴミ記者(誇張、憶測、フィクションのように記事を書く記者のこと)」たちが載せる「偽ニュース」に近い記事に対し、すぐさまファクトをもって反撃に出る。古典的「フレーミング作戦」は通らなくなったのである。

  それと並行して、「エリート同士の戦争」も熾烈に繰り広げられている。朝中東とハン京オとの駆け引き、大統領府と国会と、また、検察と最高裁との力比べも相当なものになっている。エリートを取り巻く環境が急激に変化しているのだ。

  東大教授の安冨歩氏が書いた『不思議な国のエリート』は、福島原発事故の発生後、社会を欺瞞するエリートたちの話法を掘り下げた本である。原題は『もう東大話法にはだまされない』である。「東大話法」は韓国の事情に例えると「ソウル大話法」、または「エリート話法」として理解できる。韓国のエリートたちはどのような話法を駆使するか、ぜひ誰かに研究してもらいたいところだ。韓国社会のエリートたちは、それぞれの分野で彼ら同士の堅い城を築いている。教育改革が空回りするいちばん大きな理由は、私学エリートたちのせいであろう。第1野党・自由韓国党のみならず与党・民主党議員の大多数が私学財団の理事長か、関係者である。「私学法」の改正が難しいわけだ。

  「族閥私学」やマスコミ・ムラ、原子力ムラがそれぞれ一つの閉じた社会を形成し、開かれた市民たちと対峙している形になっている。それはまるで部族社会と市民社会との闘いのようだ。
  日本の場合、部族社会の要素が多く残っていることによって、それが市民社会に進んでいくことの足枷となっている。近代初期まで、個人は、小さくは家門と似ている家に所属し、大きくは藩に所属していた。各藩がそれぞれ一つの「国家」だったわけだ。現代にもその影響は根強く残っている。日本の鉄道システムが地域ごとにバラバラになっているゆえんでもある。近代化を「個人の誕生」という見方から考えると、日本社会は近代に移行していないように感じる。

  技術面ではアジアでいちばん先駆けて近代化に成功したのだが、意識面では依然として封建的状態に留まっているとも考えられる。市民意識の発達し難い土壌である。日本の近代化過程を「家」から「立場」への帰属と表現した安冨先生の分析はとても鋭いものだ。
  社会を危機に陥らせるエリートたちの問題を掘り下げた『不思議な国のエリート』は、「教育」の問題も提起している。日本や韓国のように競争的入試教育を通してエリートを育てる社会は危機に脆弱になるしかないからである。共同体より自己の利害関係を優先して考える人々は、その立地が脅かされる時に欺瞞の態度を取るものである。
  東大教授の著者はこういった観点から、東大の学生たちがどのような学生なのか、また、卒業後にはどのようなエリートになっていくのかについて語りながら学校教育の問題も指摘されている。
  幼少期からきちんと「訓育」を受けた子どもたちは、特定の状況において「立場」を弁える独特な感覚を早くも身につける。このような子どもは学校で先生から質問を受けた時、どのように自己の「立場」を守ることができるかについて良く理解している。
 「処世術」とでもいえるだろうか。

  相手が求める「答弁」をその場で出せる能力がだんだん見につく。このような能力を磨きに磨いて仕上げるのが、まさしく日本の受験制度である。問題を作った人が何を聞いているのか、条件反射の速度で理解し、それに相応しい正解をさらさらと書き下ろすのだ。日々の訓練を繰り返してテクニックを熟達した学生が「東大」に合格するのだ。決して頭の良い学生が東大に入るわけではない。本文の第5章は、このように指摘する。
  安冨先生は「バブル経済や戦争、環境破壊など、誰にとっても良くないことを何故人間は頑張って進めているのか」という問いを抱えて多様な学問分野を行き来しながら研究を進めてきた珍しい学者である。暴走社会の原因をしつこく掘り下げているわけだ。『不思議な国のエリート』もその延長線上にある。



登録種別:研究活動記録
登録日時:MonDec1010:53:352018
登録者 :安冨・藤岡
掲載期間:20181210 - 20190310
当日期間:20181210 - 20181210