TOMB OF MAHMUD KHAJI & ASHRAFI MAHAL


 この建造物は、のちにスルターン・マフムードによってその生前に彼の墓所に変えられた。マフムード・ハルジーは1475年に死んでいるが、彼はこのこの建造物を自らの墓廟に造り変えたものと思われる。ただ、かなり急いで造営されたらしく創建後まもなく崩落してしまい、ムガル三代皇帝アクバルの治世に修復されたことが刻文からわかるが、近代に至ってジョン・マーシャルによって発掘され、建造物の全貌が明らかになった。
墓廟の中央に置かれた三つの墓中央のこのスルターンの墓石も建造物全体も、随所に白、黒、黄色の大理石を豊富に用いて造られていたと想定され、今も残る一部建造物の基盤からも窺えるように壮大な建造物であったことが推定される。なお、この遺跡の台上に立てば、このスルターンの墓所はジャーマ・マスジッドと次項で紹介するホーシャング・シャーの墓と同一線上に並ぶように造られていることがわかり、この建造物の造営を命じた王の生前の権威が偲ばれるのである。 (荒松雄)

 

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