本書の第一の目的は、エジプトという地域の思想を語る知識人、地理学者ガマール・ヒムダーン(Ḥamdān Jamāl 1928-1993年)とその主著『エジプトの個性』(shakhṣiya miṣr shakhṣiya miṣr 改訂版・全4巻1980, 81, 84年)の紹介にある。ヒムダーンが、自宅で事故により突然、この世を去ったのは今から20年前の1993年4月17日のことである。
1963年にカイロ大学を辞職して以来、30年に亘る孤高の学究生活をつづけた彼の死は、当時のエジプト言論界に大きな衝撃を与えた。数多くのアラブ知識人がオイルマネーによって堕落する一方、偏狭な宗教イデオロギーによって数々の野蛮な事件が起きつつある中、清貧を貫いた彼の人生とともにその著作が改めて見直されたからである。
さらに現在、2年前の2011年1月に始まった新しいエジプト革命によって、彼の大著『エジプトの個性』が再び注目を集めている。エジプトという地域の個性を壮大な地理学的体系によって描き尽くそうとしたこの著作は、変革すべきエジプトとは何か、エジプト人は何を目指すべきかを問う「エジプト的性格論争」という民族的アイデンティティ論争の山脈にそびえ立つ高峰だからである。
本書は、この稀有の天才的知識人と評されるヒムダーンの個人史に関心を寄せながら、その知的思想的成果をより広い社会の歴史の中に位置づけて考察する地域研究の一つの方法論的な試みである。本書の第Ⅰ部では、ヒムダーンの『エジプトの個性』の世界を扱い、第Ⅱ部では近代エジプトの灌漑制度の発展を議論する。第Ⅱ部でナイル川をめぐる諸問題を扱うのは、第Ⅰ部の主人公であるナイルの地理学者、ヒムダーンの研究とそれらが深い関係をもつからだけではない。思想史を個人史と社会史の文脈の中で把握しようと試みる筆者の方法論的関心において、灌漑制度の研究は、広い意味での社会史の重要な部分を占めるからである。
本書は、何よりもエジプトという底の知れない魅力をもった国を愛する人たちのために書かれた。今年の春もまた始まったハムシーン(大砂嵐)のように霞んだ未来しか見えない状況にあっても、エジプトという存在に対する自信は、エジプト人の間でいささかも揺らぐことはないであろう。
2013年4月6日
筆者
序論 近代エジプトの国家と社会 | |
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1 | 地理的決定論の誘惑 |
2 | 近代エジプト国家とナイル川 |
3 | 綿花経済の成立とその危機 |
4 | 第二の近代化 |
5 | 一月二五日革命とその課題 |
第Ⅰ部 ガマール・ヒムダーン『エジプトの個性』の世界 | |
第一章 エジプトの中央集権性―ガマール・ヒムダーン『エジプトの個性』研究(1) | |
1. | はじめに―中東の中央・地方研究 |
2. | 民族主義(ワタニーヤ)の地理学者、ヒムダーンの個人史 |
3. | 『エジプトの個性』の構成内容 |
4. | 同質性 |
5. | 統一性、中央集権性、そしてファラオ的専制 |
6. | むすびに―ファラオ的専制とヒムダーンの個人史 |
第二章 エジプト知識人と文化的重層性―ガマール・ヒムダーン『エジプトの個性』研究(2) | |
1. | はじめに―ヒムダーンの著作と重層性 |
2. | 局面の多様性 |
3. | 中央性と中庸、連続性と断絶 |
4. | エジプトとアラブ―民族主義の重層性 |
5. | むすびに―ヒムダーンの苦難とその思想の可能性 |
第三章 地域の思想と地域研究― ガマール・ヒムダーン『エジプトの個性』から学ぶもの | |
1. | はじめに―地域概念の設定をめぐって |
2. | 思想としての地理学―地域研究における方法論的総合のために |
3. | ヒムダーンとエジプト的性格論争 |
4. | ヒムダーンとイスラーム |
第Ⅱ部 エジプトの潅漑制度の歴史と現状 | |
第四章 近代エジプトにおける潅漑制度の展開 | |
1. | はじめに―エジプト灌漑農業の特質 |
2. | 近代エジプト灌漑制度における技術的発展 |
3. | 法律的・行政制度的発展 |
4. | むすびに―近代化による灌漑組織の変容 |
第五章 潅漑制度改革の新段階 | |
1. | はじめに―現行の灌漑制度の概要 |
2. | 制度改革の背景 |
3. | アメリカの灌漑制度改良プロジェクト |
4. | IIPと水利組合の結成 |
5. | 農村における灌漑組織の変容 |
6. | 筆者の灌漑調査記録から |
7. | むすびに-ヒムダーンの議論の検証のために |
第六章 ベイスン潅漑に関するノート | |
1. | ベイスン潅漑の呼称を巡って |
2. | ベイスン潅漑の形成―ガマール・ヒムダーンの研究から |
3. | ベイスン・システムの構造 |
4. | ベイスン潅漑と農業労働―サイイド・クトゥブ『村から来た少年』より |
第七章 アスワン・ハイダムの建造が環境に与えた諸影響をめぐって | |
1. | はじめに―ハイダム論争の政治化について |
2. | ハイダムの積極的影響の再検討 |
3. | ナセル湖からの蒸発・浸透による水量損失 |
4. | 地下水位の上昇と塩害問題 |
5. | 住血吸虫病の蔓延 |
6. | 河床・堰の浸食と自然の施肥効果の剥奪 |
7. | 海岸線の浸食と漁業への影響 |
8. | ヌビア人の移住問題 |
8. | むすびに |
第八章 「ナイルの賜物」の行方―エジプトの環境問題 |
長沢 栄治 著
『エジプトの自画像 -- ナイルの思想と地域研究 --』
平凡社, 352ページ
2013年3月
本著に関連する記事がエジプトの新聞「アル・アハラーム」に掲載されました(2013年4月20日)
東洋文化研究所にて過去に紹介した長沢栄治教授によるその他の著作