MANDU W.サーガル・タラーオ東岸

1.MALIK MUGHITH MASJID  (1432)
2.DAI KI CHOTTI BAIHAN KA MAHAL
  (15世紀後半〜16世紀)
3.DAI KA MAHAL    (15世紀後半〜16世紀)
4.ANONYMOUS TOMB WEST OF DAI KA MAHAL
  (15世紀後半〜16世紀)

1.MALIK MUGHITH MASJID 

拡大写真  サーガル・タラーオの東方に残っているこのモスクは、ムハンマド・ゴーリーの治世の造営で唯一残っている建造物である。東門の上部に掲げられた刻文から、このモスクが「835AH年のラジャブ月」(1432)に、マフムード・ハルジーの父だったという「ムギースッディーン・ウルゲ・アーァザム・フマーユーン Mugith al-Din Ulugh-e A'azam Humayun」すなわちマリク・ムギースによって創建されたことが知られる。(荒松雄)
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2.DAI KI CHOTTI BAIHAN KA MAHAL  

拡大してみる この地方で「乳母の妹の宮殿」の名で知られてきたこの建造物は墓建築で、小さなモスクを備えているが、後者の大半は崩落してしまっている。
 基壇の中央に造られている墓建築は、かなり高いドームを頂く八角平面の建造物で、その内部もまた八角、天井との間は十六角をつくり出している。両側にアーチ形の小さながんをたてに並べてアーティキュレートされた八角の各面のうち、東西南北にあたる四つの面は二重のアーチ形の入口を開き、他の四面はアーチ形の浅く大きながんを成している。このサーガル・タラーオ地域には、ドームを頂く墓建築やそれと関わりあるモスクの遺跡が、規模はいずれも小さいが相当数残っている。(荒松雄)


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3.DAI KA MAHAL 

拡大してみる  かなりの高さの基壇の上に造られた墓でその西側にはモスクが併設されている遺跡である。地方的には「乳母の宮殿」を意味するこの名称で知られているが、誰の墓であるかは不明である。墓とモスクとはどちらが主であるかについては、おそらくモスクが墓建築に併設されているものと推定する。基壇の南東と北東の隅には円形の堡塁様の構築物が一部に残っているが、もとは塔かパヴィリオンが立っていたものと推測されている。モスクの基部となっている基壇の西側には、低い基壇と庇の間に五つのアーチ形の部屋が設けられており、この部分はよく残っている。(荒松雄)
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4.ANONYMOUS TOMB WEST OF DAI KA MAHAL 

拡大してみる  広めの二重アーチ形の部屋を並べるかなり広く高い基壇の上に立ち、四周にはそれぞれ二重アーチ形の入口と両側の同形のがんを備えている典型的なマールワ建築の一つである。高い基壇の南側にはかなりの規模の階段が設けられており、建造物全体の規模と雰囲気とからみても、かなりの王族か高官の墓所であったことが推定される。(荒松雄)
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