本書は、「魂の脱植民地化叢書」シリーズの一冊として上梓されたものである。にもかかわらず、私は本論の中で、「魂の脱植民地化」という言葉を、一度も使っていない。それは、私が仏教思想を研究する中で追究してきたものが、「魂の脱植民地化」というテーマ以外の何ものでもないと考えたためで、「魂の脱植民地化」という言葉を使わなくても、愚直に私の「仏教」を論じることが、そのまま「魂の脱植民地化」というテーマに直結していることが、読者にも十分に伝わるはずだと考えたからである。
学問の世界では、通常、「私」を主語に置いて、自分をさらけ出すような文章を書くことはタブー視される。しかし、本書では、あえて「私」という主語を多用した。こうしたスタイルでものを書くというのは、学者にとってとても勇気の要ることであり、一歩間違えれば、暴論になりかねないことは、重々承知している。
私は本書を書くことで、自分自身を逃げ場のないところに置くことになった。しかし、それはおそらく、元来、どの分野の学者にも必要とされていたことなのである。その意味で、今回、このようなスタイルでものを書いたということは、私にとって胸のすく行為でもあった。
本シリーズの執筆スタイルが一つのモデルとなって、学術論文の新たなスタイルが生まれていくことを、切に期待したい。
「あとがき」より抜粋
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≪生きることに「東洋」も「西洋」もない。仏教を知るために、生きることの立脚点を思考するために、私は山本伸裕氏の『他力の思想』を強く推薦する≫ 哲学者・國分功一郎