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トゥグルカーバード(Tughlugabad)の城砦としてひろく知られている。クトゥブ=ミーナールの東方約8キロメートル,クトゥブ・バーダルプル=ロードの北側にある。附図.J-13
この城砦は,南側の城壁を底辺とする,ほぼ梯形をした大規模なもので,西南隅の宮廷地域と,その他の都市地域とからなっている。宮廷地域は,その東側の部分が,とくに高くなっていて,さまざまの建造物の廃墟が一面にのこっており,かつてこの部分が,宮廷の中心区域であったことを思わせる。都市地域は,現在では,その中央やや西南寄りのところに,トゥグルカーバード部落があるほかは,ほとんど荒野となっている。しかし,トゥグルカーバード部落の北の部分には,かつてのジャーマ=マスジッドの廃墟がのこっており,また,その北西には,数条の交叉する都大路のあとをたどることができる。この城砦内の各所には,井戸や大貯水池などの痕跡が認められ,また,城門の近くには,城壁の内側にそって,多数の地下倉がのこっている。この城砦をとり囲む城壁は,バットゥルメントと狭間とをそなえた堅固な構築物で,随処に堂々たるバスティオンをもっている。この城壁の各所には,十余の城門をひらいているが,その大部分のものは,すでに崩壊してしまっている。
城砦の南方には,ガャースッディーン=トゥグルクのものとされる墓建築のある,小城砦風の建物が立っており,この両者は,橋の形をした通路によって結ばれている。また,この城砦の東南部分の南側には,アーディラーバードの城砦があって,両者のあいだを,堰堤城壁が走っている。このトゥグルカーバードの城砦は,トゥグルク朝の創始者である,スルターン=ガヤースッディーン=トゥグルク=シャーが,建設を命じたもので,彼自身は,その完成を見ることなしに,725A.H.(1325A.D.)に死んだ。そのあと,その子ムハンマド=ビン=トゥグルクによって,デリーの新しい首都として,しばらくのあいだ,使用されていたといわれる。第Ⅱ期。
東研.Ⅹ-4-2;ASI.Ⅳ-1

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