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東洋文化研究所所蔵の朝鮮半島族譜資料について
 
宮嶌博史
 

 
* この論文は、東京大学東洋文化研究所附属東洋学研究情報センター報『明日の東洋学』第7号(2002年3月発行)に掲載されたものです。
* 本文中のリンクをクリックすると付図(族譜抜粋)をみることができます。ただし、付図は朝鮮語・韓国語環境で作成されていますので、正しく表示するにはハングルのフォントが必要です。

 
 
 
1.はじめに
 族譜とは、中国を中心とした東アジア社会で編纂されてきた家系記録の一種である。族譜の編纂が広く行われていた地域は、台湾・香港を含む中国だけでなく、朝鮮半島、ベトナム(主に北部)、琉球に及んでおり、現在でも韓国などでは盛んに編纂されている。本研究所には以前から大量の中国族譜が所蔵されていたが、近年、朝鮮半島の族譜の系統的収集に努めてきた。ここでは、本研究所所蔵の朝鮮半島族譜について概要を紹介するとともに、朝鮮半島族譜の性格について私見を述べることにしたい。

 

2.所蔵族譜の概要

 現在、本研究所に所蔵されている朝鮮半島族譜の総数は、552点、冊数にして3、000冊近くに上る。そのほとんどは木版、石版、鉛版などの刊本であるが、少数の鈔本と影印本が含まれている。時代的には15世紀のものから近年のものにまで及んでおり、世紀別に見ると、15世紀1点、16世紀1点、17世紀2点、18世紀12点、19世紀45点、20世紀の1945年以前127点、1946年以後357点で、編纂年代不明のものが7点となっている。ただし15世紀から17世紀までの4点は族譜の原本ではなく、後に影印されたものであり、原本でもっとも古いものは1709年刊の『昌寧成氏族譜』である。

 朝鮮半島において族譜が編纂・刊行されるようになるのは15世紀にはいってからのことで、1403年に編纂された水原白氏の族譜がその嚆矢とされている。しかしこの族譜は序文が伝わっているだけで現存しておらず、現存するもっとも古い族譜は成化12年(1476年)に刊行された『安東権氏世譜』である。

 族譜は親族・家族制度や、婚姻関係をはじめとして、研究上貴重な情報がたくさん含まれているが、広く世上に流布する性格のものではなかったので、研究機関や公的図書館にもあまり所蔵されていない。族譜編纂の主体は同姓同本集団と呼ばれる父系血縁集団である。たとえばもっとも古い族譜を有している安東権氏という集団の場合、安東という地名がこの集団の祖先の出身地=本貫であり、権がその姓である。すなわち、姓と本貫を同じくする父系血縁集団が同姓同本集団であり、この集団の組織(宗親会、宗中、門中など、さまざまな名称が付けられている)が自分たちの族譜を大切に保存しているのが一般的である。

 研究機関等で朝鮮半島の族譜を比較的多く所蔵しているのは、韓国国立中央図書館、ソウル大学校奎章閣、韓国精神文化研究院蔵書閣、ハーバード大学燕京図書館などである。このうち、韓国中央図書館には20世紀前半の植民地期に刊行された族譜が大量に所蔵されており、奎章閣と燕京図書館には古い時期の貴重な族譜が多く所蔵されている。日本国内にはほとんど所蔵されていないが、東北大学の嶋陸奥彦教授が燕京図書館所蔵族譜の複写本を中心に、貴重な族譜を収集されている。こうした状況に鑑みて、本研究所ではこの数年間族譜の系統的収集に努めてきたわけである。なお、本研究所所蔵族譜については、その目録をまもなくウェブ上で公開することになっている。
 

3.朝鮮半島族譜について

 族譜の編纂が始まるのは宋代中国においてである。歐陽修や蘇洵の作った族譜がその原型となったとされているが、その編纂が盛んになるのは明代に入ってからである。中国の族譜は、ある一人の人物を起点として、その父系の子孫たちを記録したものである。中国では父系血縁集団を宗族と呼ぶが、族譜はこの宗族集団の名簿であり、宗譜という書名のものがもっとも一般的である。

 中国における族譜編纂の影響を受けて朝鮮半島でも族譜が編纂されるようになったわけであるが、族譜は私的に編纂されたものであったので、中国でも朝鮮半島でも、その編纂の全体像を知ることはきわめて困難である。朝鮮半島の族譜について言えば、これまでに編纂された族譜の総数は膨大なものになると思われ、今日においても韓国では毎年大量の族譜が刊行されている。朝鮮半島の族譜編纂に関するもっとも包括的な調査は、韓国の新聞社である中央日報社が行った調査であると思われるが、その調査結果をまとめた『姓氏の故郷』(1900年刊)によると、これまでに455の同姓同本集団が少なくとも1回以上、族譜を編纂したことが報告されている。現在韓国には3,000余りの同姓同本集団が存在している。その内で455集団が族譜を編纂しているのだから、少数のように見えるが、人口数でいうとこの455集団が占める比重は圧倒的である。

 まず同姓同本集団ごとに、いつから族譜を編纂するようになったのかを見ると、15世紀20,16世紀33,17世紀81,18世紀152,19世紀48,20世紀60、不明61となっている。族譜編纂が15世紀に始まり、17,18世紀に多くの同姓同本集団が自分たち一族の族譜を有するようになったことがわかる。

 次に時期別の編纂族譜数を見ると、15世紀23,16世紀43,17世紀148,18世紀398,19世紀580,20世紀の1945年以前417,1946年以後684,不明303,という結果が得られる。この調査の対象となったのは、一つの同姓同本集団全体を収録した「大同譜」と呼ばれる族譜であり、族譜にはこれ以外に、同姓同本集団の一部を収録した「派譜」と呼ばれるものがある。「派譜」は「大同譜」の数倍ないし数十倍もの数が編纂されたものと思われるが、その全容を知る術はない。しかし「大同譜」の編纂数を見ても、新しい時期になるほど族譜の編纂が盛んになってきたことがよくわかる。最初に述べたように、族譜は中国およびその周辺地域で作成されてきたものであるが、現在ではおそらく韓国においてもっとも編纂が盛んであると言ってよいだろう。

 朝鮮半島の族譜についてもう一つ指摘しておきたいことは、外ならぬ族譜という呼称についてである。族譜という呼称は東アジア世界で共通して使用されているものであるが、実際に編纂された族譜にはさまざまな名称が付けられている。中国では「宗譜」という名称がもっとも多く使用されているのに対して、ベトナム・琉球では「家譜」という名称が一般的である。この違いは、単なる名称の違いではなく、収録範囲の規模を反映したものではないかということが、末成道男氏によって指摘されている(末成「ベトナムの『家譜』」、『東洋文化研究所紀要』127所収、1995年)。つまり、中国の「宗譜」に比べて、ベトナムや琉球の「家譜」はその収録範囲が狭く、それが名称に反映されているのではないか、という意見である。

 この末成氏の指摘を念頭において朝鮮半島族譜の名称を調べると、興味深い結果が得られる。族譜をもっとも大量に所蔵している韓国国立中央図書館について見ると、その名称分布は次のようになる。「世譜」993点、「族譜」525点、「派譜」490点、「家乗」39点、「大同譜」32点、「家譜」26点、「世系」19点、「家乗譜」17点、「大同世譜」14点、その他85点である。このうち「派譜」や「大同譜」という名称は、先に述べたようにその収録範囲を明示するための名称であり、本来的には「〜派世譜」とか「大同族譜」とすべきものの略称であると考えられる。この点はさておいて、朝鮮半島では「世譜」という名称が「族譜」という名称よりも広く使われていたことがわかる。本研究所所蔵の族譜について見ても、「世譜」、「派譜」、「族譜」の順になっており、同様の結論が得られる。現存するもっとも古い族譜が「安東権氏世譜」であることが改めて想起される。

 それではこうした呼称のありかたは何を意味しているのであろうか。ベトナムや琉球と同様に、中国の「宗譜」という呼称を意図的に避けていると考えることが可能だろうか。もしそうであるとすれば、なぜ「宗譜」という呼称を避けて、「世譜」という呼称が好まれたのであろうか。この問題を考えるには、朝鮮半島族譜の基本的性格を再検討することが必要である。そこで次に、朝鮮半島の族譜について、従来の主流的な理解とその問題点を示した上で、筆者なりの新しい解釈を提示してみたい。
 

4.朝鮮半島族譜の基本的性格

 中国の族譜が父系血縁集団である宗族の名簿であったことから、朝鮮半島の族譜もこれまでは主に親族集団、親族組織のあり方を反映するものと理解されてきた。そして族譜に収録される範囲を中国と比較することによって、親族制度の特徴が論じられてきたのである。その際もっとも注目されてきたのが、17世紀を前後する族譜収録範囲の大きな変化であった。

 15世紀に編纂が始まった朝鮮半島の族譜のうちで16世紀までに編纂されたものを、われわれ研究者は初期族譜と呼んでいる。そして17世紀あたりを過渡期として、18世紀以後、基本的には中国の族譜と同じ形式のものが編纂されるようになったというのが、これまでの通説的な理解であった。

 初期族譜をとり立てて区別するのは、その収録範囲が、18世紀以後のものや中国の族譜と比較して大きく異なっていたからに他ならない。『安東権氏世譜』(成化譜)を例にあげながら、その特徴をまず見ておこう。図1は成化譜の一部を抜粋したものであるが、ここに見られるように、初期族譜では女系の子孫、すなわち外孫についても、族譜編纂時点に至る系譜をすべて(もちろん判明する範囲でのことであるが)収録しているのである。これは女系子孫をいっさい収録しない中国の族譜との顕著な違いであるが、それは当時の親族観念が内外、つまり男系・女系の別を問わない双系的なものであったことの反映であると解釈されてきた。 そして17世紀以後の族譜になると外孫の収録範囲が次第に縮小されて、図2のような形が一般的な収録範囲となるのであるが、こうした変化は、父系的な親族観念、親族結合が強化されてくることを反映したものとされてきたのである。

 しかし従来の通説的理解はいくつかの点で問題があるように思われる。まず初期族譜について言えば、その収録範囲を親族観念で捉えることがはたして可能なのかが問題となる。図1を再度見てみると、ここに登場する人物たちだけで姓は11種類にもわたっているが、これら異姓の人物たちが相互を親族と観念していたとは到底思えないのである。まして彼らを包括する何らかの親族組織が存在したとはまったく考えられない。中国の族譜が宗族という血縁組織なしには編纂されなかったのとは異なり、成化譜に収録されている人物は親族組織を前提としないものであったと見るのが自然であろう。

 次にもう一つの問題としては、18世紀以後の族譜から父系血縁結合の強化という傾向を導き出し、中国の族譜と基本的に共通する性格のものと解釈する点についてである。しかしこれまでの研究でも指摘されているように、18世紀以後の族譜においても、婚姻関係の記載方式で朝鮮半島の族譜は中国と大きく異なっていた。図2を見るとわかるように、ここでもやはり初期族譜と同様に、異姓の人物たちがより多く登場するのである。すなわち同姓同本集団の男子構成員だけでなく、その配偶者の父親および女婿の姓名が必ず記載されるのであるから、族譜の編纂主体である同姓同本集団のメンバーよりも、固有名詞としては異姓の人物の方が数的に多く収録されることになるわけである。こうした婚姻関係に関する族譜の記載は中国のものと大きく異なっており、中国では女婿はいっさい登場しないし、妻父名が記載されるものも少数に属する。つまり中国の族譜は宗族メンバーの名簿という性格をひじょうに純粋に保っているのに対して、朝鮮族譜はむしろ婚姻を通じる異姓の集団との結びつきを重視する編纂方法を採っているのである。

 以上述べたことからすると、初期族譜から18世紀以降族譜への編纂方式の変化を、双系的親族結合から父系的親族結合への変化を反映したものとする従来の理解には従い得ないことになる。従来の通説的理解の前提には、族譜というものは何らかの親族結合に基づいて作成されるものであるという了解があった。そしてそうした了解は、中国の族譜が宗族という親族組織によって作成されたことから、同様の前提を他地域の族譜にも当てはめようとしたことに起因すると思われるのである。

 朝鮮半島の族譜が何らかの親族結合、親族組織に基づき、その構成員を示すことを目的としたものではないとすれば、それでは一体何のために族譜が編纂されたのであろうか。姓を異にする名族たちの横の繋がりを誇示することが族譜作成の第一の目的であった、というのが筆者の考えである。

 安東権氏・成化譜を最終的に完成させた徐居正は、その序文で、「現在の中央政界で官職に就いている数千の人は皆、安東権氏の二つの支派の子孫である」、という趣旨のことを述べている。つまり成化譜は安東権氏の族譜でありながらも、当時の政界中枢部の名族たちがどこかで婚姻関係を通じて結びついていること、そしてその結びつきの中心には安東権氏が存在していることを示すことを目的に編纂されたと理解できるのである。双系であれ父系であれ、親族結合・親族組織という概念では到底収まりきれない広い範囲の人物たちが収録されているのも、こうした族譜編纂の目的ゆえであった。

 初期族譜をこのように理解するとすれば、18世紀以降の族譜はどのように理解できるであろうか。筆者は、18世紀以降の族譜もその基本的性格は初期族譜と同一であったと考える。中国の族譜と違って婚姻関係が重視されていることが、名族譜としての性格を端的に示していると思うからである。それでは初期族譜から18世紀以降の族譜への変化はどう解釈できるだろうか。

 17世紀以降の族譜になると次第に外孫の収録範囲が狭まってくることは前述したが、こうした変化が生じた原因は二つあったと考えられる。一つは、初期族譜のように外孫の系統もすべて収録するとなると、族譜自体が膨大なものにならざるをえないことである。15世紀に編纂された成化譜においても、その収録人員は8千名を超えており、すでに膨大な数の人たちが収録されていた。17,18世紀に族譜を編纂する場合にはこれを遙かに上回る人員が収録対象となるわけで、多くの族譜は、外孫の収録範囲を限定する理由としてこの点を指摘している。

 もう一つの原因と考えられるのは、多くの同姓同本集団が族譜を編纂するようになったことである。すなわち、初期族譜が編纂された15,16世紀において族譜を有する集団はごく少数であったのに対して、17,18世紀になると多くの集団が自らの族譜を持つようになった。したがってあえて族譜に外孫を延々と収録しなくても、女婿たちが属する一族の族譜を見れば、外孫の系譜を辿ることが可能になったわけである。これが外孫収録範囲の縮小を生み出した、もう一つの原因であったと思われるのである。

 以上述べたように、朝鮮半島の族譜が基本的に名族譜としての性格を有するものであるという理解に立つ時、以下のような諸現象があらためて注目される。

 第一に、『文譜』とか『武譜』、『蔭譜』といった名称をもった書物の存在である。こうした名称をもつものは本研究所にもいくつか所蔵されている。その内容は、ある時点における文官や武官、あるいは蔭官(恩蔭によって官位に就いた者)たちの名簿であるが、それぞれの人物について、八代上までの父系祖先の名、および外祖(母方の祖父)・丈人(妻の父)の姓名を書いてあるのが一般的である。これらは官僚たちが横の繋がりを確認するとともに、それぞれの由緒を誇示したものであり、典型的な名族譜であると言えるが、族譜的な名称と体裁をとっていることが注目される。これらのものとは性格がやや異なるが、『北譜』(本研究所所蔵)や『南譜』といった党争に関わる党派別の名簿も、やはり族譜のような体裁をもっている。

 近代に入ると、『河東郷案世系源流』や『順天名族譜』(いずれも本研究所蔵)のように、地域ごとの名族たちの族譜を一冊にまとめた書物が編纂されるようになる。こうした現象は名族たちの威信が失われていくことに対する危機意識の産物であるといえようが、やはり族譜の名族譜としての性格が前提になっていると見ることができる。日本植民地支配期に編纂された有名な『万姓大同譜』は、名門の族譜を集大成したものであるが、この書物こそ、朝鮮半島族譜の性格を端的に示すものと言えるのである。

 第二に注目される現象は、18世紀以降においても「外孫譜」とか「内外子孫譜」というような名称をもつ族譜が編纂されていることである。本研究所に所蔵されている族譜の中に『昭剛公内外子孫譜』(影印本)というものがある。これは1831年に刊行された族譜で、全州李氏・李という人物の内外子孫を網羅したものである。こうした種類の族譜は韓国国立中央図書館にもいくつか所蔵されており、また刊行年代は不明であるが『耽津崔氏外孫譜』という族譜のように、外孫だけを収録した特異な族譜も編纂されている。朝鮮時代後期においてもこうした族譜が編纂されていたのであり、親族観念や親族組織のあり方からは説明できないものである。

 朝鮮半島で編纂された族譜に「宗譜」という名称が殆ど使われていないことも、以上述べたような名族譜としての性格に起因するものであるかも知れない。同姓同本集団を表す言葉としては同宗、宗中という言葉が中国と同様に使われながらも、「宗譜」という名称が避けられていることは、中国との違いが意識されていたと考えるのが自然ではないだろうか。また朝鮮半島の族譜を名族譜であると把握できるとすれば、ベトナム、とりわけ琉球の「家譜」との親近性があらためて注目されるところである。

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