JAUNPUR

 

 グムティー川流域の北岸の町で、南岸のザファラーバードと呼ばれる地にはヒンドゥー寺院や仏教僧院の遺構がのこる。1360年にデリーに都するトゥグルク朝の君主フィーローズ・シャー・トゥグルクによって創設され、当時の城砦がのこっている。その後、シャルキー朝の首都となり、巨大なパイロン(イーワーン)を特色とするいくつかのモスクが1394年から1478年の間に建設され、以下に取り上げた5つのモスクが現存する。ロディ朝のシカンダール・ロディが占領したものの細々と独立を保ってはいたが、1559年にはアクバルによって完全にムガル帝国の配下に組み込まれた。ムガル朝下遺構としてはモスクの他にムーニム・ハーンによって建設されたアクバリー橋が有名である。(深見奈緒子)

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ジャウンプルの町
アタラ・マスジッド屋上より
 

 

<代表史跡>
1.ATALA MASJID (1423)         
2.LAR DARWAZA MASJID (1450)
3.KHALIS MUKHLIS MASJID (.1430)
4.JAMA MASJID (.1470)
5.JHAHANGIRI MASJID (15世紀中頃)
6.BARHA MASJID (18世紀以後)
7.FORT (14世紀後半創建)
8.ANOYMOUS TOMB
9.GRAVEYARD
10.BRIDGE OF MUNIM KHAN
11.MUGHALID MOSQUE
12.ANONYMOUS MOSQUE
13.BRIDGE


1.ATALA MASJID

 アタラー・マスジド 「アタラー(無比の)」と呼ばれるこのモスクの名には、もと「アタラー・デウィー」なるヒンドゥー女神を祀る神殿の跡にその資材を使って造られたことによるという伝承もある。1373年にハワージャ・カーミル・ハーン Khwajah Kamil Khanが建てたという説と、ジョゥンプル独立後の1408年になって、かつてフィーローズ・シャー・トゥグルクが建立を想定した地にシャムスッディーン・イラーヒームShams al-Din Ibrahim(1402-36)が造営させたとする推説もある。(荒松雄)

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▲礼拝室ファサード及び北廻廊を南東より  

 

2.LAR DARWAZA MASJID

拡大してみる  アタラー・マスジドやジャーマ・マスジドと違って、同じジョゥンプル・スタイルのパイロンを持ちながらも、表面の大アーチの下の三つの入口は、ヒンドゥー様式の柱によって支えられている点が変わっている。私達が訪ねたときは、その上部が崩落していて「遺蹟」という感が深かったが、はたして現代はどうなっているだろうか。その俗称は「赤い入口の門のモスク」の意味だが、朱色の辰砂で塗られていたことに由来するものと考えられている。他のモスクに比べて小型ではあるが、東と南の門はパイロン風の形である。マフムード・シャー(1436-58)の治世にその妃のビービー・ラージャにより1450年頃にヒンドゥーの石工によって造られたとする説もあるが、P.ブラウンは特にこの地方独自の顕著な影響はわれないとしている。しかし、上述の正面入口の柱をはじめこのモスクの礼拝室内部の柱などには、ヒンドゥー様式がよくえるように思われる。この地に残る他の大半の遺蹟と同じく、このモスクにも女性のためのザナーナが設けられており、各所に見られる透かし彫りのスクリーンとともにジョゥンプルのモスク群の特徴を示すものといえよう。(荒松雄)

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▲中庭から礼拝室方向をみる   


3.KHALIS MUKHLIS MASJID

拡大してみる スルターン・イブラーヒームの治世の1430年頃の創建といわれるこのモスクは、造営者の2人の総督であったマリク・ハーリスとマリク・ムフリスの名に由来するといわれている。前項のアタラー・マスジドとよく似ているジョゥンプル・スタイルのモスクであるが、正面パイロンの構造や装飾をはじめモスク全体の形態と構造の点で、より小規模で簡素なものとなっている。

 
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▲北東より  


4.JAMA MASJID

拡大してみる  このモスクの造営はアタラー・マスジド及びハリス・ムフリス・マスジドより遅れて1470年前後と推定され、いわゆるシャルキー王国最後のスルターンとなったフセイン・シャーHusain Shah の治世(1458-1479)の創建とする者が多い。その規模において、他のジョゥンプル現存のモスク群のなかで最も大きく、したがってジャーマ・マスジドとしてながくムスリム大衆の間に知られてきた。(荒松雄)

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▲礼拝室ファサード    

  

5.BARHA MASJID

拡大してみる 平坦な屋根を頂きイーヴァーン入口をもつ、ムガル中期乃至は末期造営のモスクと思われる。中央の入口の両側を開口せずに、高いミフラーブ風の壁だけとするのが変わっている。戸外のひろい前庭で祈る信者たちのために考えられたものと思われるが、南アジア現存の多くのモスクのなかでも珍しい正面の造り方だと思う。礼拝室内にはヒンドゥー様式の柱が使われている。(荒松雄)

 
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▲南東より礼拝室をみる  

 

6.JHAHANGIRI MASJID

拡大してみる  3つの入口はヒンドゥー様式の柱に支えられているが、正面の他の部分はジュゥンプル型のモスクと同じ様式をもつモスクで、ジャーリーと同じ透かし彫りのスクリーンを意味する「ジャンギーリー」の名を冠して呼ばれてきたのも、その正面壁面の彫刻が目立つところからきていると考える。もう一つの俗称「ジャハーンジュリー・モスク」の方は、このモスクを造営したとされるスルターン・イブラーヒーム(1401-40)が崇敬していたという聖者ハズラト・サァイド・ジャハーンの名に由来するものかもしれない。現在は上部を欠いた正面の部分を残すのみである。デリーのローディー朝のスィカンダル・シャーによって破壊されたとする説もあるが、現状から推すと未完成に終わったとする説の方が有力のようにも思われる。J.マーシャルは、このモスクが小型ながらもその様式がアタラー・マスジッドによく似ていることから、同一の工人によって造営されたものと推定している。その推論はともかく、わずかな正面の一部に残る繊細な彫刻文様からしても、その技術がすくれていたことは十分推察されるところである。(荒松雄)

 
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▲南東より 

 

7.FORT

拡大してみる  ジョゥンプルは、もとフィーローズ・シャー・トゥグルクの時代に造られた城壁に囲まれている。ここに掲げたのは次の二項とともにその一部で、現存する城壁には今もなお見張りやぐらを備えたバスティオンなどが残っており、本来の堂々たる構造を伝えるに十分である。城門は今日も通路として使われている。外東門は前述の城壁、城門とその構造、様式は同じだが、この城門は当地独特のモスクの正面に一層似たアーチや壁がんを持つ立派なものだった。(荒松雄)

 
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▲東門と城壁を東よりみる    

 

8.ANOYMOUS TOMB

 ドームを頂く12本柱からなる四角平面の墓建築で、ドームを支えるドラムの部分が高いところから、15世紀末期か16世紀造営のものと推定するのが妥当であろう。(荒松雄)

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▲墓全景  

 

9.GRAVEYARD

 広い囲壁に囲まれた広い墓地で、墓域内の堂々たる墓が目立っていた。おそらくは王族か貴族を葬る墓地だったと推定される。(荒松雄)
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10.BRIDGE OF MUNIM KHAN

 ムガル三代皇帝アクバル治世の一五六〇年代に、その重臣ムニーム・ハーン( Munim Khan )によって造られたもので「アクバリー・ブリッジ」の名で知られ、今日まで使われてきた。洪水や地震によりしばしば損傷を受けたという。橋上の両端に立ち並ぶピラミッド形の屋根を頂く数多くのウィリオンは今も残っている。(荒松雄)

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11.MUGHALID MOSQUE

 ドームを頂き三つの入口を開くモスクで、ムガル中期か末期のものと思われる。モスクの東北隅に接して細いミーナールがあるのが珍しい。
(荒松雄)

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12.ANONYMOUS MOSQUE

 背面からとった写真だけだが、中央の突き出た部分からモスクであることは明らかである。(荒松雄)

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13.BRIDGE

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