HYDERABAD


 1589年にクトゥブ・シャー朝の5代君主ムハンマド・クーリー・クトゥブ・シャーが新都の造営を行い、旧都ゴルコンダから新都ハイダラーバードへと遷都した。その後17世紀後半まではクトゥブ・シャー朝の中心地として栄える。1687年にムガル朝皇帝オーラングゼーブがゴルコンダを占領した後も市壁やマッカー・マスジドの建設が進み、18世紀以後はアサーフ・ジャーの築いたニザム家のデカン支配の拠点として生き続けた。
 ムシー川の南岸に作られた町で、逆三角形の市壁は最後のムガル朝統治者ムバリズ・ハーンが造営をはじめ、ニザム・ウル・ムルクが完成したものである。クトゥブ・シャー朝に遡る建築はハイダラーバードは町のほぼ中央を横切る十字路の交差点に配されたチャール・ミーナール、そのすぐ北東に1597年建立されたジャーマ・マスジド、ジャーマ・マスジドの北東に建立された病院(ダリューシファ)、チャール・ミーナールの南西に1614年から建設が始まりムガル朝皇帝オーラングゼーブが完成したマッカー・マスジドである。クトゥブ・シャー朝期にはハイダラーバードに市壁はなく、西に位置するゴルコンダからの街道がムシー川を横切る位置にプラナ・プラと呼ばれる橋が設けられ、その街道がを東へ進むとチャール・ミーナールへと到達した。チャール・ミーナールの北西のエリアは宮殿域となり、多くの宮殿建築や庭園建築が作られていたが、今は跡形もない。(深見奈緒子)

 

1.CHAHAR MINAR (1590/1)

2.MECCA MASJID (1617)

3.JAMA MASJID


1.CHAHAR MINAR

拡大してみる  ハイダラーバードの旧城市をほぼ南北に横切る大通りの交差点に位置するこの建造物は、クトゥブ・シャーヒー時代を象徴する建造物であり、とくにハイダラーバードを訪れたフランス人の旅行者テウノThevenotがその威容を称賛して以来ひろく西欧にも知られるようになった。現在でも紙幣や切手その他の絵柄に使われていることからもわかるように、インド・イスラム文化の一中心であったハイダラーバードやデカン地方のみならずインド全域に残存する歴史的遺跡を代表する著名な建造物の一つになっている。(荒松雄)

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▲南から撮影  


2.MECCA MASJID

 「ムースイー河の南に造られた城壁に囲まれた旧市内のほぼ中央部に造られたモスクで、その着工はクトゥブ・シャーヒー朝のムハンマド・クトゥブ・シャーの治世の1617年とされ、クトゥブ・シャーヒー時代の代表的な建造物の一つに数えられている。ただ、なかなか完成をみるに至らず、モスク全体の完工はずっと後の17世紀末葉ともいわれている。「マッカー(メッカ)マスジッド」の呼称については、スルターン・ムハンマドがこのモスクの創建に際してメッカの土を使わせたという説や、つねに礼拝する信徒が絶えないカァバの神殿になぞらえたものという説などが知られている。(荒松雄)
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▲礼拝室全景  


3.JAMA MASJID

 

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