GAUR
古くはラフナウティというヒンドゥー王国の首都であった。1200年頃にムスリムのバフティヤル・ヒルジーによって征服され、デリー・サルタナットの支配下にはいる。その後、デリーのスルタンの息子達によって統治されていたが、1338年にはファクル・ウッディンが新たなベンガルの独立イスラーム王朝を築き、首都をパンドゥアに移した。1420年にはゴールは再びイリヤース・シャー王朝のもとで首都となり、ジャンナートアーバードと呼ばれ、繁栄を極めた。このベンガル地方王朝は1537年にはムガル帝国のフマイユーンに征服され、同年、ムガル帝国と覇権を争っていたスール朝のシェル・シャーが奪取した。しかしながら、続く1575年のペスト流行による荒廃の後、1576年にはアクバル大帝によってムガル帝国に編入された。15世紀後半から16世紀前半にかけてのイリヤース・シャー朝下のモスク建築が多く残る。(深見奈緒子)
1.BARA SONA
MASJID (1526) 2.DAKHIL DARWAZA (16世紀前半) 3.CHAMKATTI MASJID (15世紀後半−16世紀前半) 4.LATTAN MASJID (1475?) 5.TANTIPARA MASJID (c.1480) 6.FIRUZ MINAR (1486?) 7.LUKOCHOLI DARWAZA (16世紀中頃) 8.CHIKA BUILDING (15世紀後半-16世紀前半) 9.GUMPTI DARWAZA (1512?) 10.QADAM RASUL (1513) 11.KOTWALI DARWAZA 12.旧城壁 |
ダーヒル・ダルワーザの北西数百メートルに残る、俗名「大きな金色のモスク」を意味するこのモスクは、1526年にスルターン・ヌスラット・シャー
Nusrat Shah
のジャーマ・マスジットとして造られたといわれている。11の間口、奥行4間からなるこのモスクの内部は、アーチと丸天井をもつ東側の廊を残して、崩壊してしまっていた。東門は東側の湖に面して今も残っている。(荒松雄) ●平面図と各部写真へ |
▲南東より撮影。南門、東門、北門の背後に礼拝室が見える |
「入口の門」を意味するその呼称自体が示すように、ゴゥル城内へ入る主要な門であったと思われる。ヌスラット・シャー治世のジャーマ・マスジドだったとされるバラー・ソーナー・マスジドへ通じる門で16世紀前半の造営とみる学者もいるが、15世紀の創造する者もおり、年代は確定しがたい。表面の大半は赤みがかった煉瓦造りでもとの高さは20mに近く、巨象も往来することができるアーチ形の入口をもつ中央のトンネル状の通路も長さ35mに及ぶ。壁面に装飾は少ないが、両端の12面、5層の堂々たる塔はもと小ドームを頂いていたという。(荒松雄) ●平面図と各部写真へ |
|
▲南東より撮影 |
名称の由来はマールダ地区に住むムスリムの特異な一集団の呼称にあるという。スルターン・ユースフ・シャーによる880AH年の刻文をこのモスクのものとする説もあり、ラッタン・マスジドと構造も似ている。15世紀後半から16世紀前半の造営と推定される。(荒松雄) ●平面図と各部写真へ |
▲南東からの外観 |
ゴウル所在のチャムカッティー・マスジドとほぼ同形の長方形の建物である。俗称「ラッタン」の由来には、宙返り鳩の意味と、ベンガル語の踊り子(ナティンnatin)からの転訛だとする二説があるが、もと外壁に張られていた美しい色彩エナメル煉瓦から出たものとされている。スルターン・ユースフ・シャーによる880AH年(1475)の創建を記す刻文が近傍で発見されているが、先のチャムカッティー・マスジドのものだとする説もある。いずれにせよ、15世紀後半から16世紀前半の造営と推定される。(荒松雄) ●平面図と各部写真へ |
▲南東からの外観 |
煉瓦造りのこのモスクの内室は、中央の柱を残して崩落しているが、キブラ壁面のミフラーブはよく残っている。俗名は「織工の家」の意味だが、ユースフ・シャー Yusuf Shah の治世の1480年頃に、一高官によって建てられたとされている。正面や内部西壁を被う装飾文様の豊かさで知られている。(荒松雄) |
▲東からの外観 |
ダーヒル・ダルワーザの南東の城外に残る高さ26mほどの塔で、下の三層は多辺形だが狭い屋根から上の二層は円形である。もともとモスクのミーナールだったとする説と、見張りの塔あるいは勝利の記念塔だとする諸説がある。頂上も平坦だったとするものと小ドームに被われていたとする両説がある。サイフッディーン Saif al-Dinなる王名を持つ刻文から、同じ称号を持つハムザー・シャー S.Hamuzah Shah (1412)とフィーローズ・シャー S.Firuz Shah (1486)の造営とする説に分かれるが、現在伝わる呼称は後者とするところから出たものであろう。(荒松雄) |
▲南面全景 |
室内棲息の無数のこうもり(チカー)の故に「チカー・マスジド」と呼ばれていたという。墓建築、モスク、牢屋などと考えられたこともあるが、西側にミフラーブの痕跡もなく、かつて付設されていた建造物とともに何らかの行政用の建造物だとする説が有力である。入口や柱に残る彫像の痕跡からヒンドゥー神殿の資材を転用して造られたものらしく、プランや規模、構造と様式などがパーンドゥアに残るエクラーキー廟とよく似ており、ほぼ同時代の15,16世紀の造営と思われる。(荒松雄) ●平面図と外観写真 |
|
▲南西から撮影 |
ダーヒル・ダルワーザやコトワーリー・ダルワーザと異なり、四角平面を持つ建造物でゴウル城内への東門の一つであった。両端の塔は基壇を残すのみだが、中央のアーチ形の入口の両側に現存する塔が屋上の大きなドームとともに、比較的小型のこの門に重厚な感じを与えている。フセイン・シャー治世の1512年の創建を記す刻文と関わらせる学者もいるが、正確なところはわからない。なお、アシャー女史は「グムティ・ダルワーザGumti Darwaza」の呼称を採っている。(荒松雄) |
▲西面を撮影 |
もとパーンドゥアにあった「預言者の足跡」とされる黒大理石の存在で知られる、三方を細い廻廊で囲まれた長方形の部屋を持つこの建造物は、入口に残る刻文からスルターン・ヌスラット・シャーが937年(1513)に建てたものと推定されている。この建造物の近傍に残る門やその他の建造物はのちのムガル時代造営のものと推定されるが、その一つでアゥラングゼーブ派遣の一武将の子のファトゥ・ハーンFath
Khanの墓とされる建造物は、のちに南アジア各地に多く建てられる、緩い弧を描く屋根を持ついわゆるベンガル風建築の初期のものとして貴重な歴史遺産である。(荒松雄) ●平面図と各施設写真 |
|
▲カダム・ラスール/右 とフアトゥ・ハーンの墓/左 |
各部写真へ |
各部写真へ |