| 『紀要』第140冊 |
大塚秀高 天書と泰山——『宣和遺事』よりみる『水滸伝』成立の謎——要旨 |
| 『宣和遺事』に見え『水滸伝』では消えた泰山の影と、両者のいずれにおいても強調される宋江の九天玄女廟における天書の獲得に着目し、晁蓋から宋江への首領交替に秘められた意味を、宋の太祖から太宗への皇位継承の経緯ならびに真宗の大中祥符元年に下った天書とその上書きの「趙受命、興於宋、付与諱」になどにからめ、『三国志平話』や『楊家将』に言及しつつ論じたもの。 |
| 『紀要』第140冊 |
松岡俊裕 「魯迅の祖父周福清攷(十二)——その家系、生涯及び人物像について——」要旨 |
| (十二) は第九章「事件後[“斬監候”の判決を受けて杭州府獄に収監された後]の周福清[光緒十九年〜同卅年]」。第一節「獄中時代」:秋審(秋に実施される再審)は,先ず光緒廿年に情実犯と認定されて,西太后の還暦恩赦により停勾(予勾[執行命令]の停止)となって以来,毎年一旦予勾となり,のち免勾,牢固監候 (厳重禁固)に改められた。光緒廿六年,光緒帝の卅歳誕生恩赦に因り停勾となる。福清は,下獄後当初は非常に緊張していたものの,やがて落ち着いた。光緒廿五年,家訓『恒訓』を書く。第二節「釈放から死へ」:光緒廿七年,福清の年長の旧友,刑部尚書の薛允升が,光緒廿六年義和団事件のため脱獄したのち自首し釈放された官犯黄思永等の例を援用して,福清の釈放を奏請し、許可された。福清は帰郷後早々に,以前同様,家族等を風刺し罵倒し始めた。福清は光緒卅年に発病し,病床で自ら挽聯を詠んだ。同年六月一日病逝。享年六十八歳。 |
| 『紀要』第140冊 |
上村勝彦 「ラージャシェーカラ作Kaavyamiimaa.msaa訳注(第4章—第6章)」要旨 |
| この回は、 Kaavyamiimaa.msaaの第4章から第6章までを訳出する。第4章では弟子の種類をあげ、定義する。更に、詩人と鑑賞者のpratibhaa(閃き)について貴重な見解を述べる。第5章では、pratibhaaとvyutpatti(実修)の優劣を論じ、作者としてはこれらの2つを兼ね備えた詩人が最上であるとする。第6章では単語(pada)と文章(vaakya)の特質について論じる。 |
| 『紀要』第140冊 |
山口昭彦 「オスマン検地帳に見る18世紀初頭イランの地方社会(1)—イラン内部アルダラーン地方の農村と遊牧民社会—」 要旨 |
| 18世紀初頭、アフガン族による攻撃の前にサファヴィー朝が混乱に陥ったのを受けてイラン西部に侵攻したオスマン朝は、数体にわたる占領を通じてイラン西部諸地域に対する租税台帳を作成する。台帳には、町や村、あるいは部族集団ごとに、その名称と行政上の帰属、そこに所属し担税義務を負う全成人男子の名、支払うべき税目と税額が逐一記されており、これらの記録は各地域における集落規模や生産活動などに関する豊富な情報を提供している。本稿は、これらの台帳群のうち、アルダラーン州(現在イラン西部に位置するコルデスターン州に相当)に関するものを取り上げて分析することで、この地方における農村や遊牧部族集団に関して、その人口規模をはじめ若干の特徴を提示しようとするものである。 |
| 『紀要』第140冊 |
白水紀子「近現代中国における寡婦の地位守節と再婚をめぐって」要旨 |
| 中国の家父長制研究の一環として、1920年代から90年代にいたる寡婦をとりまく環境を、守節と自由再婚、強制再の角度から整理した。新聞記事、社会調査資料、民法(判例)、文学作品など多方面の資料を参照しながら、寡婦のおかれている実態を再現し、その結果、家族や一族が寡婦の存在を認めるのは、おとなしく守節して一生を終えるか、あるいは一族の決めた再婚に黙って従うかのいづれかの時であり、もし、寡婦が自由意志によってこの既定の枠から少しでもはみ出そうとした場合には容赦のない攻撃や制裁が加えられることを指摘した。そして中国の家父長制の構造的特色を、宗族支配に求め、国と社会の二元的構造が社会主義中国においても存続していることにも言及した。 |
| 『紀要』第140冊 |
張欣 「梅娘と「満州」文壇」 要旨 |
| 「満州」は梅娘文学の原点であり、「満州文学」は「五四」以来の中国新文学から大きな影響を受けている。1937-1941年前後は「満州」文学の繁栄期であり、文選派・文叢派と芸文詩派が郷土性および近代性をめぐる議論も目立っている。「満州」文壇に呉瑛ら女性作家も活躍していた。「満州」の「国策的な意味を帯びた」文学賞は、青年作家による新文学作品にも与えた。「満州国」の「建国」にともない作家たちば試練に直面するようになり、逃亡も始まったのである。 |
| 『紀要』第140冊 |
金鳳珍 「朝鮮の開花と井上角五郎——日韓関係史の「脱構築」を促す問題提起」要旨 |
| 井上角五郎(1860-1938)は1883年1月に朝鮮に入国し、1886年12月に日本に帰るまでのほぼ4年間を朝鮮で過ごした。その間に彼は、『漢城旬報』『漢城周報』の発行に携わる一方、他方では朝鮮の初期開化派と交遊したり、1884年12月の甲申政変に加担するなど、朝鮮の開化に関与し、朝鮮社会を観察していた。帰国後には、さまざまな朝鮮関係著作を残すとともに朝鮮の内外情勢に関心を寄せていた。彼の朝鮮入国の動機と目的、それらの変容と「不純さ」への回帰を考察し、彼の著作の問題点を分析する。あわせて日朝(韓)関係史の理解をめぐる、その「脱構築」を促す、問題提起を行う。 |