| 宋代、監司による監察はうまく行かずに、台諌に頼らざるを得なかった。その背景を、淳煕年間の「臧否」制度の顛末を通じて考える。「臧」とはよい、「臧否」で善し悪し、転じて動詞的に人の善し悪しを云々する意である。『後漢書』に地方官の臧否が人事評価として使われた例がある。ところがこれはむしろ例外的で、宋以前では「臧否」は、人物評価といった意味で使われることが多かった。殊に、魏晋南北朝期には、文人による人物評価が流行ったが、「人物を臧否するを好む」という用法が定型句の如くにしばしば見られるようになる。しかし隋には国史を撰集とともに民間での人物の臧否が禁ぜられた。これが隋唐における科挙の成立などの一連の官制改革と表裏していることは言うまでもなく、国政にかかわる人物評価はこれ以降、あくまで皇帝およびその官僚によって行われるのが筋となる。南宋には、この「臧否」が孝宗のイニシァチブのもとに、制度として実施された。すなわち、監司が各の路の守臣につき、その臧否を毎年定期的に上奏して、全国の守臣を黜陟(昇任・降格)する。この形は、皇帝がその「耳目」としての監司を要に、中央— 路−府州軍−県というヒエラルキーを通じて全国をコントロールしようとする、宋の地方制度の理想を前提にしたものである。ところが、結論的にいえば、この制度は失敗であった。度重なる督促にもかかわらず、監司は命令を遵守しない。朱熹などは、強固に朝廷の命令に抵抗し続けた。またたまに実施する地方があっても、公正さを欠き、私情に走るとの批判が渦巻く。しかもその結果、政争が悪化する。ついに孝宗もその実施をあきらめる。結局、朱熹らが主張した弾劾・薦挙といった非形式的な方法に頼るしかなかった。そして、ここで忘れてならないのは、この時期には決して王朝が秩序維持の機能を失って、各地方の分権化に進むという傾向は見られなかったという事実である。官僚制における形式性は、かならずしも「中央集権的」な、つまり皇帝を中心とする伝統的な中華帝国の一体性維持の要件ではない。この非形式的な人事評価の方法にたよりつつ、王朝の体制の秩序、延いては伝統的な中央地方関係たる大一統を保つ上で最終的に重要になるのが、地方官一人ひとりの個人的な態度・資質である。弾劾に熱心な朱熹の興味がこの内面的な部分に向けられていたことは、改めて指摘するまでもない。 |