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2019年イスラーム・ジェンダー学科研公開シンポジウム「イスラーム×ジェンダー 「境界」を生きる/越える」

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2019年イスラーム・ジェンダー学科研公開シンポジウム「イスラーム×ジェンダー 「境界」を生きる/越える」が開催されました。

日時 2019年12月21日(土)13:00-18:00
会場 東京大学 東洋文化研究所3階大会議室
趣旨説明 イスラーム・ジェンダー学科研では、一昨年の「イスラモフォビアの時代とジェンダー」(2017)、昨年の「共生とマイノリティ」(2018)に続き、全体集会・公開シンポジウム「イスラーム×ジェンダー:「境界」を生きる/越える」を開催します。

私たちは、知らず知らずのうちに、自分たちの間に張りめぐらされている様々な差異という「境界」の上を生きています。これらの「境界」は、しばしば人と人を区分し、分断する障壁として使われてきました。この数々の障壁に苦しむ人は数多いでしょう。しかし一方で、社会的少数派とされた人たち、弱者は、不当な扱いを受ける差異の問題を訴え、その「境界」の線上に、自分たちの権利を守るための団結の砦を築いてもきたのです。

本シンポジウムでは<イスラーム×ジェンダー>の視点から、これらの「境界」を生きることの意味、また「境界」を越えて連帯することの可能性について、議論することを目指します。

司会 後藤絵美、岡真理
プログラム 13:00 開会の辞:長沢栄治
13:10 趣旨説明:鳥山純子

13:20 第1部:〈性別〉を考える
青柳かおる
「イスラームの「聖典」と〈性別〉」
辻大地
「歴史にみるイスラームと性 」
武内今日子
「日本における「Xジェンダー」の形成―カテゴリーの自己執行による差異化・固定化」
15:00 休憩

15:20 第2部:〈性別〉を生きる
岡真理
「映画 City of Bordersについて」
保井啓志
「イスラエルのゲイ・コミュニティにおける境界と排除―パレスチナ人ゲイの事例からの考察」
細谷幸子
「イランにおける〈性別変更〉をめぐる議論」
河口和也
「日本におけるゲイ・アクティヴィズム―多様な境界を超える連帯の可能性」
17:00 休憩

17:20 コメントと全体討論
三橋順子
17:50 閉会の辞
18:00 閉会

主催 科研費基盤研究(A)イスラーム・ジェンダー学の構築のための基礎的総合的研究
(代表:長沢栄治)
共催 東京大学 東洋文化研究所、東京大学 日本・アジアに関する教育研究ネットワーク

【開催報告】

開催報告①
 今回のシンポジウムは、イスラームとジェンダーを主要な着眼点として、次の2つの課題、すなわち、1)性別という線引きが生み出す「境界」がどのようなものであるか、2)その「境界」が生み出す包摂・排除に人びとはどのように対峙している/きたか、について問い、捉え直すというものでした。

 まず冒頭の趣旨説明において、鳥山純子氏より、「性別というカテゴリーが生み出す分断、更にはカテゴリーからこぼれ落ちるものにも着目し、カテゴリーそのものを問い直す視点」が提起された上で、第一部では、3名の登壇者により、性別というカテゴリーの意味を問い直すためのテーマが提起されました。

 はじめに青柳かおる氏の発表では、イスラームのクルアーンの中で、性別・男女の扱い・同性愛などの事項がどのように明記され、また解釈されているかについて説明がありました。多様な議論や批判があるものの、現在主流となっている伝統的な解釈においては、「人間は男・女に分けられ、異なる役割分担がある」と位置づけられていることが改めて提示されました。

 続いて辻大地氏より、歴史学の観点から、前近代イスラーム社会において性に関わる倫理・規範がどのように形成されていたかが示されました。少年奴隷・去勢者・ムハンナス(身体的には成人男性だが、女性的な振る舞いを好んで行う者)など、曖昧な性を持つ者が、男・女という性別カテゴリーに限らず、成人・非成人、能動・受動といった様々な「境界」を行き来する周縁的な存在として位置づけられていたことが明らかにされました。

 武内今日子氏からは、日本で形成されている「X(エックス)ジェンダー」の概念が紹介されました。「Xジェンダー」が、既存カテゴリーによる性別規範に抵抗し、カテゴリーそのものを読み替えたり、境界づけをし直したりしながら自己を位置づけるための“名乗りの戦略”であることが説明され、今後もその意味づけを、ローカルな文脈の中で丁寧に見ていくことの重要性が提起されました。

 続いて第二部では、4名の登壇者により、性別というカテゴリーおよびその周縁を生きる人びとが直面する多様な現状が共有されました。

 まず岡真理氏からは、冒頭でエルサレムにおける「境界」の現状が写真によって紹介されました。「『境界』は、何かと何かを分かつものでありながら、同時に両者のコンタクトゾーンでもある」というコメントが印象的で、続いて紹介された映画『City of Borders』の登場人物たちが、人種や性別など複雑に絡み合う「境界」と対峙し、行き来する姿と相まって、「境界」が生み出す包摂と排除の様相を深く考え直す機会となりました。

 続いて保井啓志氏から、パレスチナにおけるゲイの方のエピソードが紹介されました。個人としてのセクシュアリティとの向き合い方や帰属意識の所在が多面的かつ複雑なものであることが示されると共に、こうした状況を、「イスラエルとパレスチナ」そして「LGBTフレンドリーと同性愛嫌悪(トランスフォビア)」、といったような単純な二項対立で捉えてしまうと、コミュニティに埋め込まれた複合的な抑圧や差別を見過ごしてしまうことになる、という問題提起がなされました。

 細谷幸子氏の発表では、イランにおける性別適合手術をめぐる法学的・医学的な現状について示されました。一方で、手術はクルアーンにおける同性愛禁止を前提として認められる側面があり、トランスジェンダーであっても手術を望まないことの自由や、性自認・性傾向における多様性・複雑性が、十分に認識されている訳ではないという問題点が指摘されました。

 続いて河口和也氏の発表では、日本におけるゲイ・アクティビズムの歴史が解説されました。関連事例の紹介を通じて、ゲイとレズビアン、人権からの包摂と排除、同性愛者の難民認定をめぐる問題、パブリックとプライベートなど様々な「境界」の存在が示されると共に、こうした多様な「境界」を今後どのように越えていくのかについて問題提起がなされました。

 最後の全体討論では、まず三橋順子氏から総括として、文化史の観点に基づき、「様々な地域・時代においてかつてから性的マイノリティは存在し、その存在を排除するのでなく、むしろ包摂した世界というのが原初的な世界の姿だったのではないか」という提起が示されました。続いて登壇者の方々から、各々の発表内容に紐付ける形で応答コメントや追加の説明が寄せられました。それぞれが専門とする国や時代区分、学問領域など様々な「境界」を、まさに生きる/越えるダイナミックな議論が展開され、熱気溢れるエンディングとなりました。

 今回の議論から一貫して感じられたことは、「境界」とその周辺を丁寧に見つめ、捉え直すことによって、こんなにも大きな学びが得られるのだという驚きです。性別という一つの「境界」を、イスラームとジェンダーという両視点から捉えたことにより、そこに対峙して生きる人びとの個別のストーリーが明らかになると共に、埋め込まれた複合的な問題の数々が浮き彫りになりました。「境界」は、物事を分断する“線”であるだけでなく、同時に接し合う“面”でもあること、だからこそ多角的な視座と気付きの可能性が潜んでいるということを、改めて実感しています。自分自身の今後の研究においても、こうした「境界」への着目によって、これまで見過ごしてきてしまったかもしれない個別のストーリーと問題を丁寧に洗い出し、考え、行動し続けていきたいと考えます。

文責: 北野 彩(東京大学大学院総合文化研究科人間の安全保障プログラム博士課程)

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開催報告②
 境界の拡大化――イスラーム、ジェンダー、新自由主義

 「イスラーム×ジェンダー――「境界」を生きる/超える」の会場の東京大学東洋文化研究所大会議室は、一時立ち見が出るほどの盛況だった。各登壇者の報告は刺激的であり、それに続く質疑応答は本科研研究の最後を飾るシンポジウムらしく、非常に活発であった。シンポジウムの参加者および本科研研究の研究分担者として感じたところを、新自由主義をキーワードにして以下の通り述べる。

 最初に、本シンポジウムの概要を簡単に記述する。できるかぎり登壇者たちが用いたとおりの用語の再現を試みたが、熱く語る登壇者たちに圧倒されながら書いたメモ書きを基にしているため、誤りがあるかもしれない。

 まず第一部「〈性別〉を考える」では、イスラームにおけるジェンダーおよびセクシュアリティの越境について報告がおこなわれた。三名の報告者が、クルアーンにおける同性愛者の解釈(青柳かおる氏)、初期イスラーム社会における去勢者および男性少年奴隷の社会的役割(辻大地氏)、「xジェンダー」という地域限定的(1990年代の関西)なトランスジェンダー調査(武内今日子氏)について、限られた時間ながら具体的な事例を示しながら解説をおこなった。

 続く第二部「〈性別〉を生きる」では、三名の登壇者が現代の事例について報告した。最初に岡真理氏が、韓国系アメリカ人のYun Suh監督のドキュメンタリー映画City of Borderの描かれるパレスチナとイスラエルの国境における男性同性愛者および女性同性愛者たちの「境界」について論じた。現在のイランにおける性別変更手術をめぐる問題点についての細谷幸子氏の解説の後に、河口和也氏によって、1990年代以降の日本における「ゲイ・アクティヴィズム」に関する報告がなされた。

 以上のような報告の後、コメンテーターの三橋順子氏が強調したのは次のことである。多様な性を持つ人は宗教の発生よりも先立っている。三橋氏曰く、登壇者たちの報告が示しているのは、その多様な性の人びとの排除と包摂の姿である。例えば辻報告が示しているのは、職能を与えることによって男性同性愛者を包摂した歴史である。残念ながら正確な表現を失念したのだが、そうした排除および包摂の歴史を注視すべきであり、そのための研究が必要ではないか、と三橋氏は問いを投げられた。その問いは登壇者やシンポジウム参加者だけでなく、イスラーム研究者およびジェンダー研究者に投げられた言葉のように筆者には感じられた。

 その問いへの解は、「境界」について論じた登壇者たちの報告にあったのではないか。具体的には、たとえば岡氏が指摘したように、「境界」という言葉は、何かを分断するものであると同時に、それらが接触するコンタクトゾーンと理解しうる。そのことを岡氏は、空間の線引きが繰り返されるイスラエルとパレスチナにおけるゲイ・バーという異性愛的空間に集まる同性愛者らの越境を描く映画から明らかにした。河口氏が指摘した境界は、難民認定をめぐる国境のそれであり、また、「才能」の有無によって分断される同性愛者のそれであった。つまり三橋氏への登壇者たちの解は、「境界」を注視せよ、であったと思われる。

 そうした間接的な解に共感しつつ、筆者がさらに加えたいのは、第一に、その境界に新自由主義的視点を加えることである。新自由主義的視点をジェンダー研究の文脈で換言するならば、ポストフェミニズム的状況である。それはジェンダー研究を、新自由主義的な政治および経済政策の文脈だけでなく、新自由主義的文化として理解することである。筆者がこのように提案するのは、第二部および第一部の武内報告が、新自由主義政策が蔓延した1990年代以降――つまりはポスト冷戦期――に関することだったからだけではない。第一部の初期イスラーム社会を論じた辻報告にせよ、クルアーンの解釈だった武内にせよ、私たち研究者も新自由主義的文化から無縁とは思えないからである。なぜながら、本シンポジウムは日本学術振興会というある種の文化的政策の一つである科研費によって成立しているのだから。

 第二に、境界が拡大していることに注意を向けたい。岡氏が指摘したように、境界は異質な者が接触する空間でもあるとするならば、新自由主義における空間は縮小ではなく拡大している。公的なものと私的な空間。企業と政府。営利と非営利。そうした境界を曖昧にしているのが、新自由主義的政策である。そうした政策から派生した自己責任などの自由主義的思想とジェンダー研究(文学)との関係性を問うことがジェンダー研究において求められている。だとするならば、同様の研究がイスラーム研究にも求められているのではないだろうか。

 四年間続いた研究課題「イスラーム・ジェンダー学」において筆者が貢献できたことは多くはない。しかし、一つの知見を得たとすれば次のことだ。新自由主義的文化においては、イスラームもジェンダーも、忌避されながら求められる――他者化されながら論じることを強く求められている。この知見とともにイスラーム・ジェンダーを今後も考察し続けたい。

文責:松永 典子(早稲田大学)