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第3回東文研・ASNET共催セミナー「健康と幸福と不平等-仏教の観点から-」

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【報告】第3回東文研・ASNET共催セミナー
「健康と幸福と不平等-仏教の観点から-」

6月3日(木)17時から18時過ぎまで、第3回目の東文研・ASNET共催セミナーが東文研1階ロビーにて開催されました。
まず、ASNET副ネットワーク長である池本幸生教授 に「健康と幸福と不平等」と題するお話を頂き、仏教をご専門とされる馬場紀寿先生に、コメントを頂きました。
予想以上に多くの方がご参加下さり、初めて参加して下さった方も何名かいらっしゃいました。
ありがとうございました。
毎回お飲み物やおやつを用意しておりまして、当日はパプアニューギニア産の、大変芳しいコーヒーを皆で頂きました。
以下、盛会の模様を報告させていただきます。

 

【報告要旨】
2008年に法華経に関するシンポジウムでの報告(「『法華経』と日本社会の不平等」
アジア貴重古籍の電子図書館建設と保全事業シンポジウム「アジア古籍電子図書館からアジア知識庫へ――法華経と古典知の冒険――」
2008年12月6日)で、仏教は平等をどう捉えているのかについて考えてみた(この場合、「平等」とは「所得の平等」を指すのではない)。
当時、現世での不平等(持つ者を上位に、持たざる者を下位に置く)を逆転させる(持たざる者を上位に、持つ者を下位に置く)ことで、
平等を志向しているという指摘しかできなかった。
その後、個人にとっても、社会にとっても、健康、そして幸福のため、社会が平等であることが望ましい(平等であるべきだ)と
理解するに至り、大乗仏教そのものの戦略が必要条件として平等を志向しているのではないかと考えるようになった。

(1)格差社会における健康悪化
1980年代に始まる社会疫学的研究により、人々の健康は社会が不平等になるにつれて悪化することが示された
(リチャード・ウィルキンソン『格差社会の衝撃:不健康な格差社会を健康にする法』書籍工房早山 2009年)。
格差が健康を悪化させる主要な原因は、貧しい人々がさらに貧しくなっていくから(絶対的貧困の悪化)ではない。
むしろ、社会の貧富の格差が広がるという「相対的貧困」が問題である。
格差社会は、階層社会であり、高い地位(所得)は「優秀さ」を示すと考えられている。
「上昇志向」はストレスを増大させる(所得圧力、消費圧力)。そして、ストレスは健康を悪化させる。

その生物学的理由のひとつとして次の例を挙げておく。
「ストレスは、闘争・逃走反応【Fight or flight reaction:目の前の危険やストレスに対する体の本能的反応により,
血液中にアドレナリンが流れ, 闘争または逃避のいずれかの行動をとる症状】を引き起こす。
筋肉を動かすためのエネルギーを動員したり、その他にも多くの変化が起こる。
そのひとつが、血液凝固因子であるフィブリノゲンの増加であり、それによって傷を負った場合に出血を早く止めることができる。
動物が傷を負うかもしれないような攻撃の危機に直面してストレスを感じるとき、フィブリノゲンの値が上昇することは、
ストレスに対する反応として明らかに理に適っている。・・・
フィブリノゲン濃度が高ければ、負傷した時の血液の損失は抑えられるだろうが、同時に血栓が冠状動脈を塞ぐ可能性をも高め、
心臓病のリスクを増大させる」(ウィルキンソン、第5章)。ストレスは、想像以上に体に異常をもたらす。

社会の在り方(不平等)が健康に影響を及ぼすとすると、不健康の責任は、個人だけにあるのではなく、不平等な社会にもあり
(何が酒を飲ませるのか?何がタバコを吸わせるのか?)、それを促進しようとした人たち(何人かの経済学者)にもあることになる。
経済学は個人主義的であり、利己心こそが社会を「豊か」にすると考えている(利他心というものを信じていない。
利他的行為もすべて利己的に解釈できると見なす。
アマルティア・センは利他的行為を「Agency(行為主体)」という概念で捉えようとする)。
その結果、競争的制度(格差社会、成果主義、・・・)こそが経済を「発展」させると考えた。
その結果、日本では自殺率が上昇したのではないか。
自殺率の上昇は、一部の人の問題として見るのではなく、社会全体の問題の一つの兆候として捉えるべきである。

(2)健康と平等社会:利他心
利他的行為の生物学的基礎としてウィルキンソンは進化論的に説明する。
長い人類の歴史の大部分を占める狩猟採集社会は「平等な社会」だった(正確に表現するなら、「平等な社会」を維持しようとしてきた。
「分かち合い」により能力の差を反映させない、あるいは相殺するような分配制度を採用してきた)。
その結果、自分のことを相手に知らせるのが有利な戦略となり、人間の体はそのように進化してきた。
その例として挙げられるのが、白目(何を見ているのか知られてしまう/知らせている)や表情
(何を感じているのか知られてしまう/知らせている)である(ホムンクルスの図参照)。
利他的であることが、人間の本能であり、だから平等社会で健康(幸せ)に生きられるのである。
共感は人間の本能である。われわれはなぜ感動するのか?なぜ他人のことを自分のことのように感じてしまうのか?
我々は、利他的行為を本能的に賞賛しているように思われる(ミラーニューロンの存在)。
他人のことには非常に敏感に反応する能力を持っているのにも拘わらず、現代社会では他人のことに無関心になった。
「経済学の父」アダム・スミスは、『道徳感情論』で「共感(同感)Sympathy」を強調した。

この問題【マンデヴィルの『蜂の寓話』:引用者】に対するスミスの答えは,有名な同感【共感:引用者】の理論です。
人間がそれぞれ自分の利益を追求するのは当り前だ,当り前な利益追求はどこまで許されるのか,ということで同感の理論を使うわけです。
同感の理論というのは,まず第1 に自己中心的な考え方,例えば喜びでも悲しみでも,自分一人であれば思い切って感情を表に出すだろう。
しかし,そばに誰かがいれば,自己中心的な感情は当然抑えられる。
隣の人【公平な観察者:引用者】が認めてくれる範囲に,つまり隣のひとが見ていて,
この人がこういう目にあっているとこれだけ悲しんで泣くのは当り前だと思う,
自分でもそうなるだろうと思う,そういう隣の人の承認する程度に,当人も感情を抑制する。これが同感です。
人間はすべて自分中心だけれども,自己中心的な考え方・行動の限界は他人が認めてくれるところだ,
他人がどこまで認めてくれるかというと,お互いにここまでは一緒にやりましょう,
ここまでは自分中心的な活動をやりましょうということです。・・・つまりスミスが言っている自己中心というのは,
お互いが許しあえる程度という枠がはまっているのです。
それをスミスはフェア・プレイと呼んでいます。フェア・プレイというのは,スミスが考えている近代社会の原則です。
だから自由放任ではありません。スミス自身も言っていますが,あなたが自分の利益を追求するのは当り前ですが,
他の人もあなたと同じような権利を持っていることを忘れないように,ということです。ところが今の日本の経済学者には,
例えばバブルの崩壊について,バブルを批判するのはバブルで儲けそこなった人のひがみだという人がいます。
この大学の教授にもいます。 
(水田 洋「私のアダム・スミス研究」『一橋大学社会科学古典資料センター年報』20: 17-22,2000-03-31)
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/5427/1/koten00020001…

アダム・スミスは多くの経済学者が考えるように、利己的行為のみを推奨したのではない。

(3)仏教と健康
社会疫学は、大量のデータが揃うようになって、
「人の健康は個人的な要因だけで決まるのではなく、社会の在り方(不平等)によっても大きく左右される」ということを
やっと証明できた。しかし、仏教はそのことをずっと以前から理解していたのではないか。

上座部仏教は一人だけで解脱できると考えたが、大乗仏教は「みんなが一緒に渡ること」が重要であると考えた。
もし仏教が一種の健康法(幸福と健康は密接に結びついている)と見なすなら、
健康が個人の努力で達成できると見ていたのが、社会を変えることによって達成できるという立場に変わったことになる。

【議論内容】
本報告の最も大きな論点である「仏教は平等主義か」という疑問に対して、コメンテーターの馬場先生から、
そもそも仏教がカースト制度に対する批判として生まれたため、平等を志向していたことが指摘された。
バラモンの神話を逆転させて、平等な神話を作ったという話は極めて興味深い。
インドにおいて上座部仏教の時代には、出家者の間で、上下関係のない平等なコミュニティが形成されていた。
しかし、それは一部のコミュニティ内のことであり、社会運動としての広がりはなかった。
「平等」という言葉が初めて使われるのは、もちろん中国語に翻訳されてからであるが、
中国では過剰に(つまり、誤訳も含め)「平等」という言葉が使われたらしい。
さらに仏教が日本に入ってくると、自分だけの御利益(ごりやく)を求めるという利己的なものになっていった、という結末は
残念な気がする。平等院は本当に平等主義だったのか知りたいところである。
 
今回は、宗教が健康をどう捉えているのかというところまで議論は進まなかったが、今後の課題としたい。
[池本幸生]

 

このセミナーは、広くアジアに関する研究を行っている、東京大学の研究者の方に発表の場を提供するという趣旨のもので、
発表者・参加者双方にとって、有意義な場となっております。
しかし、残念なことに、まだまだ認知度が低く、次回以降の報告者が見つかっておりません。。。
ということで、次回(6月10日木曜日、17時から18時)も第3回に引き続き、池本幸生教授にお話頂きます。
コーヒーから不平等や格差を考える、という面白いテーマですので、多くの皆様のご参加をお待ちしております。